Promise

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  幕間*思惑の行方、見守る眼差し  

 「ノウェイン様、そろそろ休憩にされてはいかがですか」
 艷やかな黒髪を項で束ね、涼やかで理知的な紺青の双眸の三十代も半ばを過ぎたと思しき男が、執務机でペンを走らせていた金髪の青年へと声を掛けた。ノウェインは手を止めて、男を振り返り、その外見と同じ穏やかな声で、
 「そうだね、ルーク。そろそろ昼も近いし、一度休憩にしようか。すまない、サンドウィッチか何か軽いものと飲み物を厨房の者に頼んでおいてくれないか?」
 後半は部屋の隅で待機していたメイドへと向けた言葉である。彼女が国王の執務室を出ていくのを見届けると、ノウェインはふうと息を吐き、腕を延ばした。今日も早朝から書類仕事ばかりで身体が凝り固まってしまっている。時間が許すようであれば、少しは身体を動かすべきなのだろうが、彼は不幸にも妹姫のような運動神経には恵まれていない。彼は、その彼女のことを思いながら、窓の外へと視線をやる。細めた双眸は印象は違えど兄妹ともに同じ色だ。
 「フェリカたちは今頃どうしているんだろうね。そろそろ国境を越えたくらいかな」
 のんびりとした口調でそんなことを宣う主君に対し、ルークは嘆息する。先日、隣国にして敵国のセレイド帝国の者によって攫われてしまった下級文官の少年を追って、王妹のフェリカが国を出奔してしまった。王命により、近衛騎士団の若き副団長に彼女の護衛をさせているものの、一国の王女の旅にしてはあまりにも貧相に過ぎる。
 「ノウェイン様は、フェリカ様の事となると甘過ぎるんです。いくらケイゼス・クレイルをつけたからといって、フェリカ様に何かあったらどうなさるおつもりなんですか」
 「まあ……ほら、あの子はあの通りの子だから、あの子の身に何かが起きるようなことはまずないんじゃないかな。それに何かしでかしそうになったらケイゼスが止めるだろうし、ケイゼスじゃ止めきれなくてどうしようもなくなっても、ルーク、君がいるだろう?」
 「……」
 ルークは頭が痛くなりそうな思いだった。なんてことないとでもいうふうにさらっとこういったことを言ってのける辺りが、身に纏う雰囲気はまるで違うというのにもかかわらず、血は争えないというか、この兄にしてあの妹ありといった感じである。ああもう、と今後、追加されるであろう仕事のことを思って彼は頭を抱えていると、ふと、とあることを思い出した。顔を上げ、室内に自分たち二人しかいないことを改めて確認すると、ルークは真顔で声を潜めながら、
 「ところで、ノウェイン様……我が国が潜入させている密偵からの定期連絡で、とある情報が入りました」
 「とある情報?」
 慎重に話題を切り出した忠臣に、ノウェインは眉を顰めた。ええ、とルークは頷くと、
 「何でも、彼の国で、最近、皇位継承権を持つ者が捕らえられ、監禁されたとか。その者は前皇帝にどことなく似た風貌の、まだ十代半ばほどの黒髪黒瞳の少年とのことで、市井のものとして生きてきた、前皇帝の妾腹の子ではないかと言われているようです」
 ふむ、とノウェインは頷く。妹には限りなく甘いが、聡い若き王は何かを察したようだった。ルークは、ここからは私の推論ですが、と前置きをした上で、己の主が恐らく考えているであろうことを言葉にしていく。
 「この情報が入ってきた時期及び彼の国からの距離を鑑みるに、彼はティゼル・アルフォーンである可能性があります。彼は今でこそ、アルフォーン家の養子となっていますが、それ以前の素性については、今もわからないままです。前皇帝は側室との間に嫡子を設けていたとのことなので――それが彼かも知れません」
 「私も同意見だ」しかし、とノウェインは続ける。「彼の国の前皇帝の嫡子については、公式には母子ともども国内で暗殺されたことになっている。この国に逃げ延び、今も生きているというのはあまりにも出来すぎた話ではないかと思う。この話の情報源は誰だ?」
 「ユーリス・エイフェンです。彼女は彼の国の城に潜り込んでいるのですが、少し前から、罪を犯した皇族が監禁される場所へと日に何度か食事が運ばれていくようになったのを目にしているそうです。彼の風貌や素性については、食事を実際に運んでいったことのある他のメイドから聞き出したらしいですが、こちらはあくまでも噂話程度に考えても問題ないでしょう」
 ノウェインは難しい顔で何かを考え込んでいたが、
 「可能性は低いが、彼の国に攫われたティゼル・アルフォーンが皇位継承権の問題に巻き込まれているかも知れないわけだな。こちらは不確定要素が多いが、彼の国で前皇帝の血を継ぐ者が囚われている可能性については情報としての確度が高そうだ。ティゼル・アルフォーンが関わっているにしろ、関わっていないにしろ、このことに起因して、近いうちに彼の国で政変が起きる可能性があるから、我が国としては念のために備えておいたほうがいいね。騎士団と各官僚に指示を出しておいてくれるかい?」
 「御意に。ところで、フェリカ様方についてはどうされるおつもりですか?情勢が不安定であるのなら、尚更……」
 「そのままで構わないよ。密偵たちはフェリカたちとは別で動かしておいて、新しい情報が入り次第、随時こちらへ知らせるように伝えておいてくれ」
 「……よろしいのですか?その……嫌な予感がするのですが……」
 ルークが眉を顰める。ノウェインは意に介したふうもなく、のんびりとした声音で、
 「まあ、あの子は多少、直情的なところはあるけど、馬鹿ではないから、最悪の事態だけは起こさないでいてくれると思うよ。ケイゼスもついているし」
 「……」
 最早、主君の言葉を訂正する気にもなれず、ルークは沈黙する。フェリカの直情的で暴走しやすい面は多少どころの話ではない。警護役にケイゼスが就いているとはいえ、ルークの私見では、惚れた弱みなのか何なのか、彼は完全にフェリカの尻に敷かれてしまっている。何だかんだ言いつつも、最終的には、渋々ながら彼女に従ってしまうであろうことは火を見るよりも明らかである。彼らの帰国後に、どれだけその尻拭いのために徹夜仕事が続くのだろうとルークはうんざりとした気分になる。密偵たちの次回からの報告には恐らく、フェリカたちの動向も含まれているだろうと思うと、今からもう既に聞くのが怖い。そんな彼の胸中などお構いなしに、ノウェインはなおもおっとりと続ける。
 「ルーク、人って、生きていく過程で様々な経験を重ねて、その上で前に進み、成長していくものだよね。フェリカは王族としては真っ直ぐ過ぎて、どうしても王族としての己と私情を上手に割り切れないところがあるけれど、彼女もまた、変わっていかないといけないときに来ていると思うんだ。だから、私はもちろん、国王として手を下さねばならない部分については手心を加えるつもりはないけれど、今回の件の行く末については、フェリカに任せて静観していようと思うんだ」その方が有事の際への備えに手を回せるし、と付け足すようにノウェインは言う。「だから、ルーク。迷惑を掛けるけれど、どうか一緒に見届けてくれないかな?この、事の行く末を」
 「……いいでしょう。ノウェイン様、承知いたしました」
 ルークは己の主に向かって、深々と頭を下げた。妹姫と同様、情が深すぎるのが玉に瑕ではあるが、彼がこのような人物であるからこそ、十年前のあの日、あの混乱した状況下で、まだ少年であったこの若すぎる国王に仕えようと思えたのだ。当時、今のフェリカよりも更に若い年齢でもあったにもかかわらず、未熟ながらも既に彼は王の器足り得た。
 この兄妹には王族として、どうやら必要なカリスマが生まれつき備わっているようで、近衛騎士団副団長のケイゼス・クレイルがその主のフェリカに心酔しているように、ルークもきっとノウェインには最終的には従ってしまう。きっと、この先、ずっと、この主にはどこまでもついていってしまうのだろう。
 ルークがそっと覗い見た、窓の外を見つめるノウェインの蒼穹の瞳は優しい色をしていた。遠くへ思いを馳せるその双眸から降り注ぐ眼差しは春の柔らかな陽差しのように暖かかった。
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