Promise

モドル | ススム | モクジ

  中編*重なる想いの向かう場所  

 フェリカとケイゼスが秘密裏かつ半ば強引にロウェイス王国の王都・ロルヌを出奔してから、十日余りが過ぎた。二人の旅は、傍目から見れば仮にも一国の姫君のものとは思えないものであったにもかかわらず、セレイド帝国の帝都・セルヴィードに辿り着いた今も、当のフェリカはけろりとしていた。堂々と国境を超えるわけにもいかず、山越えをして密入国するという強行突破を行なったとは到底思えない。並の騎士ならとうに音を上げている。ケイゼスのそんな姫君としては規格外過ぎる主は隣国の帝都の様子を興味深そうに、勝ち気そうな澄んだ蒼穹の瞳を動かして観察している。
 (来ちゃった……あと、もう少し)
 フェリカは、重厚感のある灰色の石造りの荘厳な城を見据え、気合を入れ直す。ティゼルの救出はこれからが本番だ。
 「ケイ、気付いてる?この街……」
 「ああ」フェリカの問いに、ケイゼスは頷く。「帝都だというのに静か過ぎる」
 「物の動きも軍事的な動きも平時のものに見えるわ。治安も住民の生活水準も見たところ、うちの王都と大差なさそうだし、帝都だから、人通りだってそれなりにあるのに、この息の詰まるような感じは……現皇帝ゼーウィン・メイティアの圧政のせいなの……?」
 フェリカはその華奢な拳を握りしめる。他国のことではあるとはいえ、同じ為政者として見過ごしておけるものではなかった。それほどまでに、この街の空気はどんよりと沈み、人々は何かに怯えているふうだった。活気のない暗い空気を感じるのは、決して昼下がりの空を覆う厚い雲のせいではない。
 「…フェリカ」ケイゼスはぽんぽんとあやすようにフェリカの頭を撫でる。「そういう視点でものを見ることができるのはいいことだし、その上で民を思って怒ってやれるお前は王女として立派だと思う。だけど、自分の目的を見失うなよ。……それに、お前が何かしようっていったって、事情が事情とはいえ不法入国している俺たちには分が悪いし、何より内政干渉だからな」
 「そんなこと言われなくたってわかってるわよ。子供扱いしないでよね」フェリカはケイゼスの手を振り払うと、ところで、と彼へ向き直る。「……ねえ、気付いてるわよね?」
 「帝都の少し手前から、ずっと何者かの気配がしているな。ティゼルの手掛かりになるかと思って、敢えて泳がせていたが、そろそろこっちから仕掛けて首根っこ押さえてやるか?」
 「そうね」フェリカは腰に携えたレイピアの柄に手を掛けながら、彼の言葉に賛同する。彼女が好戦的に舌なめずりをする様に彼は背筋にぞわりとしたものを覚える。「まさか、正面切って押し入るわけにもいかないし、今はとにかく情報が欲しいところだわ」
 「そうだな。……だけど、フェリカ、お前はちゃんと俺に守られておけよ」
 「何でよ。わたし、剣はそれなりに使えるから、最低限、自分の身くらいは守れるわよ」
 不服そうな彼女にケイゼスは溜め息を吐く。ケイゼスとて、彼女の剣の腕前は知っているし、正直、今年の新米騎士たちより余程強い。彼女の剣術はあくまで護身のためのものであり、その分騎士道も何もあったものではないため、持ち前の身軽さも相俟って、”それなり”どころではない。しかし、ケイゼスにとって、フェリカはあらゆる意味で守るべき対象である。傷一つ付けようものなら、陛下にも父上にも叱責を受けるであろうことは疑いない。
 「……誰だ。そこにいるのはわかっている。何が目的だ」
 ケイゼスは低く鋭い声音で誰何を問うと、使い慣れたサーベルを抜き放ち、構える。彼に倣い、フェリカも出奔時にこっそり騎士団の武器庫から持ち出してきたレイピアを抜き、油断なく辺りに視線を走らせる。すると、次の瞬間、目の前の空間に血液と同じ禍々しい色の魔法陣が浮かび上がる。魔法陣を織りなす複雑な文字と紋様は、先日、ロウェイスの王城のフェリカの私室に現れたものと同じものだ。魔法陣の中から、先日と同一人物と思しき漆黒のローブを纏った小柄な人影が姿を現すのを認めると、ケイゼスは上段から斬りかかる。サーベルの切っ先がローブのフードを掠め、その人物の顔が顕になると、
 「そのっ、あのっ、僕はお二人をどうこうしようなんていう気は全く無くって!ずっと見ていたことは誤りますから、お願いだから斬らないでくださいっ!!」
 フェリカよりもいくつか年下と思しき眼鏡をかけた茶髪の少年の悲鳴に毒気を抜かれ、二人は顔を見合わせた。

 暫くの後、帝都の路地裏にあるとある民家の一室で、フェリカとケイゼス、ローブの少年は顔を突き合わせていた。少年に案内された場所ではあるものの、一先ずの危険はないと二人は判断した。ここに連れてこられるまでの間も、特に不審な点はなかった。しかし、ケイゼスは気を緩めることなく、少年の一挙手一投足に目を配り、いつでも抜剣できるようにサーベルの柄に手をかけたままでいる。
 「それで、結局、お前は何者なんだ。一体、何が目的だ」
 ケイゼスがその眼光と負けず劣らず厳しい口調で、少年へと先刻と同じ問いを投げかけた。少年はびくりと萎縮したように肩を震わせ、怯えたように顔を俯かせる。そして、おずおずと、
 「僕は、ヨフィン・マルティスといいます。代々、皇帝陛下に宮廷魔導師としてお仕えさせていただいている家系の者です……」
 宮廷魔導師という単語にフェリカとケイゼスは顔を見合わせる。彼が宮廷魔導師であるというのは、ローブの胸元の紋章から予想出来ていた範疇のことではあったが、こうして接触してくることの真意が知れない。
 「先日の件も、今日の件も、このフェリカ・シェーゼル王女殿下の御身が目的か?そうであれば、ロウェイス王国への挑発行為と見做され、こちらとしても何らかの報復行為をも禁じ得ない」
 「そんな……あの……僕は……」ヨフィンは細い銀縁の眼鏡の向こう側の大きなヘーゼルナッツの双眸を潤ませ、「そうではなく……僕の目的は、フェリカ王女殿下ではなく、ティゼル・メイティア殿下……いえ、ティゼル・アルフォーン様なんです」
 「ティゼル?」フェリカは思わぬ人物の名を耳にし、聞き返す。「何故、ティゼルなの?ティゼルはロウェイスのただのしがない下級文官よ。他国が危険を冒してまで、誘拐なんてことに手を染めなければならない身分の者ではないわ」
 「ならば……何故、あなたは今、ここにいらっしゃるのですか、フェリカ王女殿下」
 「ティゼル・アルフォーンは、臣下であり、ロウェイスの国民であり、何よりも大切な……大切な、わたしの幼馴染であり、友人だからよ。これで充分かしら?」
 ケイゼスが思わしげな視線を送ってくるのをフェリカは左頬に感じた。彼女の言葉に、ヨフィンは緊張させていた口元を緩めると、
 「本当に、あなたはティゼル殿下の仰っておられた通りのお方なんですね。フェリカ王女殿下と、そちらの近衛騎士団の副団長の……」「ケイゼス・クレイルだ」
 「お二人は、いざとなればご自身の立場をかなぐり捨ててでも、幼馴染の友人として、自分を迎えに来るために、どんな無茶をしてでもこの国に乗り込んできてしまうだろうと、ティゼル殿下はそれを憂いていらっしゃいました」
 羨ましい関係ですね、とヨフィンは呟く。ケイゼスはいまいち話が見えないと言いたげに、苛立ちを隠そうとすることもなく、
 「さっきから、ティゼルのことを散々、殿下、殿下って呼んでいるが、あいつは何なんだ?あいつは何故、何のために攫われた?」
 「ティゼル殿下については、貴国とこの国が絡む、少し長い複雑な話になります。お二人が知る事実とは違うこともあるかもしれませんし、既にご存知のこともあるかもしれませんが……聞いていただけますか?」
 「いいだろう。ティゼルが現在置かれている立場については俺も殿下も知りたいところだ」
 「ええ。お願いするわ」
 ヨフィンの言葉にケイゼスとフェリカは各々頷く。促され、ヨフィンは不穏な空気を孕んだ昔話を語り始めた。

 十六年前の冬の終わり、ティゼル・メイティアはセレイド帝国の第一皇子として、この世に生を受けた。彼は正室のアナイスではなく、側室のシルフィナの子ではあったが、早々に世継ぎを欲していた当時の皇帝――トゥルク・メイティアは、彼を次代の皇帝とすることを発表した。このことにより、当時の皇帝の弟であり、皇位継承権第一位の座にあったゼーウィン・メイティアは、その順位を繰り下げられることとなる。
 ゼーウィン・メイティアは野心家だった。長年、隣国のロウェイス王国との緊張関係にありながらも、内政にばかり力を注ぎ、何も事態を動かそうとしない兄に不満を覚えていた。しかし、その当時の彼には、兄を玉座から引きずり下ろし、生まれたばかりの皇子から次代の継承権を奪還するための手札が不足していた。
 セレイド帝国の宮廷では、代々、宮廷魔導師として召し抱えられている一族がいる。その関係性と歴史はこの国の建国のころから続くものとされている。彼らは、皇帝の政治のため、必要があれば後ろ暗いことへとその能力を行使し、この国の陰に生きてきた一族――それが、マルティス家の人々だった。
 ティゼルが二歳になる年の秋の初め、マルティス家の娘であるイレーヌが男児を出産した。その子供には父親がいなかった。イレーヌの息子――ヨフィンが不貞の子ではないかと嗅ぎつけたゼーウィンは彼女を脅迫し、自らの命令に従順な手駒を手に入れた。間違ったことであると知りながらも、ゼーウィンの手足となることが、当時のイレーヌが息子とその未来を守るために唯一できることであり、愛だった。こうして、少しずつ、事態は動き始めた。

 それから一年後、ティゼルが三歳になり、少し経った春のはじめのある夜、事件は起こった。ゼーウィンの命令により、皇帝と正妃が宮廷魔導師のイレーヌ・マルティスの手により殺されたのである。そして、続けて彼が彼女へと下した命令は、亡き皇帝の側室であったシルフィナ妃とその息子で第一皇子であるティゼルの殺害であった。
 しかし、イレーヌはシルフィナを手に掛けることは出来ても、幼い第一皇子を殺すことを躊躇ってしまった。近い年齢の子供を持つ母親としてできなかった。彼女は己の生命の危険も顧みず、一つの反抗を試みた。
 イレーヌは、ティゼルが皇子として生きられずとも、せめて普通の子供として幸せに生きられるようにと、その記憶を封印する術式を施した。そして皇位継承争いにこれ以上巻き込まれ、その幼い生命が脅かされることのないよう、転移の魔法陣を用いて、彼女の力が及ぶ範囲内のどこともしれない場所へとティゼルの身を転送した。しかし、それ自体は成功したものの、直後にゼーウィンに彼女がしたことが露見してしまう。イレーヌがゼーウィンの命令に背いたことは事実であり、彼女は国を脅かした罪人として、即日処刑され、暫くの間、城壁で晒し首にされた。その屍肉に鴉が群がり、貪り食っていた。
 こうして、前皇帝であったトゥルク・メイティアは斃され、皇位継承権第一位にあった幼い第一皇子ティゼルも行方知らずとなったため、セレイド帝国では新しい皇帝ゼーウィン・メイティアの治世が始まった。それは抑圧に満ちた、暗雲立ち込める時代の幕開けだった。

 ヨフィンが訥々と語るくらい色合いのかつてのセレイド帝国の惨劇にフェリカは唇を噛んだ。その表情は悔しげに曇っている。
 「わたし……何も知らなかった……。ティゼルのこと、何も知らなかった……何も、知ろうとしてなかった……!」
 「姫様」フェリカの悲痛な声に、ケイゼスは宥めるように冷静に、「俺たちがセレイド側の過去の事情を知ったのは今なんです。当時の俺たちはまだ幼い子供で、そんな他国での出来事に対して何かができたわけではないでしょう。ですから、姫様がご自身をお責めになる必要はないかと」
 「だけど!!」フェリカはケイゼスの言葉を遮って叫ぶ。「わたしが知っていたいの!!何年一緒にいたと思っているの!!わたしがティゼルのことは一番に知っていたいの!!」
 ティゼル以上にフェリカとずっと一緒に過ごしてきたのはケイゼスだというのに、それなのにフェリカはティゼルのことしか見ていない。ケイゼスの胸の中に苦いものが広がる。彼はヨフィンへと向き直り、疑うような眼差しを向ける。
 「……今の話、本当なんだな?なら……何故、お前は今もこうして生き延びていられる?宮廷魔導師イレーヌ・マルティスの息子なんだろう?」
 「前皇帝に宮廷魔導師として仕えていた祖父、モルディアに守られました。母が現皇帝の元へ下ってからは、勘当されたも同然の状態だったのですが、孫の僕に対しては最低限の情けは掛けてくれて。ただ……祖父が一昨年に亡くなってからは、何の後ろ盾もなくなり、僕もまた、皇帝陛下の元へ下るほかなくなりました……」
 「なら、何が目的で俺たちにこんな話をした?敵国の情報を引き出した上で、俺たちを秘密裏に葬り去るためか?」
 お前のご主人様はどうやらそのくらいのことは平気でやらせそうだしな、とケイゼスはヨフィンへと詰め寄る。彼がサーベルを抜く素振りを見せると、ヨフィンはがたがたと震えながら降参とばかりに両手を上げる。
 「そ、そんなことしません。信じてください。ティゼル殿下の誘拐は確かに皇帝陛下の命令です。陛下には跡継ぎがいません。なので、祖父の亡き後、母の手によって行方不明となったティゼル殿下を探し、どんな手を使ってでも連れ戻すように命じられました。自分のいいなりになる次代の皇帝を欲されたためです。ですが……僕は、ティゼル殿下のお人柄に触れ、この国で正しい意味での次代の皇帝となってほしいと思うようになりました。僕は、この国の未来を陛下の思い通りになんてさせたくはないんです。次の皇帝としてティゼル殿下を立てることで、今のこの状況からこの国を救いたいんです」
 真摯なその言葉にケイゼスは得物から手を放す。馬鹿ばっかりか、と彼は溜め息を吐くと、
 「ヨフィン。警告しておいてやる。お前、ろくな死に方をしないぞ。母親と同じ轍を踏むことになる」
 「それでも構いません。それに、母のしたことの全てが全て、間違っていたとは僕には思えないんです。思いたくないんです」ヨフィンは真っ直ぐにそう言い放つと、二人へと問うた。「ティゼル殿下は、貴国でどうお過ごしでしたか?殿下は、ちゃんと幸せでしたか?」
 フェリカとケイゼスは思い思いに三人で過ごした日々をヨフィンへと話し始めた。

 フェリカとケイゼスが初めてティゼルに出会ったのは、フェリカが三歳、ケイゼスが六歳の春の昼下がりのことだった。城内の子供部屋に差し込む柔らかな陽光が暖かく、ほんのりと草の匂いがする風が心地良い日であったことを彼女は何となく覚えている。
 その日、フェリカの乳母であるロナ・アルフォーンがフェリカと同じくらいと思しき年格好の黒髪黒瞳の幼い少年を伴って登城した。少年は数日前にロナの住まう王都のアルフォーン家の屋敷の裏庭に意識不明で倒れているところを家令に発見されたとのことだった。彼は身元がわかるものを何一つ身につけておらず、意識が回復した彼自身にアルフォーン家の人々が何を尋ねても、”ティゼル”という名以外、何も分からずじまいだった。
 そうした事情が当時の国王夫妻の耳に入り、同じ年頃であるフェリカの遊び相手とするのはどうかという提案がなされた。身元の分からない幼い少年を王女に近づけることに対し、反対意見を唱えるものもいたため、ティゼルは正式に貴族であるアルフォーン家の養子となり、王女の遊び相手という役目を国王から拝命することとなった。
 そういった一通りの事情はロナがきちんと幼い子供にもわかるように噛み砕いて説明してくれたとケイゼスは言っているが、フェリカは少年の名と彼女に最後に言われた、仲良くしてくださいねという言葉しか記憶にない。好奇心旺盛なフェリカは未知の少年に対する興味でいっぱいだったからである。ケイゼスは、物心ついたころから、家柄の関係もあり、兄妹のように育ってきたフェリカを一瞬にして目の前のおどおどとした少年に取られてしまったような気がして、まだ六歳ながらにして何だか面白くなかった。
 しかし、ケイゼスのそんな感情も長くは続かなかった。ティゼルは大人しく、それまでの記憶を失っていることも関係しているのか、どこか少しぼんやりとした子供だった。そのくせ、フェリカとケイゼスに見せるはにゃっとした笑顔は周りの空気を無条件に柔らかくさせた。フェリカとはまた違った意味で守ってやらないといけない相手だと思った。自分は――ケイゼスは、この二人の兄のようなものだからだ。
 こうして、お互いの腹の底に意識的にも無意識的にも抱えるものがありながらも、三人は兄妹のように、そしてかけがえのない親友として、共に育っていくこととなる。

 隣国セレイド帝国の者の手によって、国王夫妻が殺害されたのはその冬のことだった。その日の夜は王城で新年を祝う宴の一環として、国内の主要な貴族を集めた舞踏会が催されていた。そんな折に、どこからともなく王城に現れたセレイドの宮廷魔導師により、一瞬にして国王夫妻は強力な爆発魔法によって、近くで歓談していた貴族数人を巻き込みながら消し炭と化した。骨の一本すら残らなかった。城の大広間は大混乱へと陥った。それを好機と判断したのか、漆黒のローブに身を包んだ隣国の初老の宮廷魔導師は、血液と同じ色の禍々しい色の魔法陣を辺りの空間に無数に描く。激しい閃光を放った途端、黒装束に身を包んだよく引き締まった体躯の年齢も性別も伺い知れない人影が魔法陣から溢れ出し、城内はロウェイス王国史上最悪の地獄絵図に見舞われた。
 多くの死者は出たものの、王国騎士団および近衛騎士団の出動により、騒ぎは鎮圧され、王太子のノウェインや第一王女のフェリカは辛くも無事だった。また、王女に近しい貴族の子息である、ティゼルやケイゼスたちに掠り傷一つなかったこともまた、不幸中の幸いだった。
 隣国セレイドによる突然の襲撃後、ロウェイス王国は一つの選択を迫られた。
 ――隣国との間に戦端を開くか否か。
 ロウェイスは国王夫妻をはじめとし、重鎮たる貴族の多くを殺害された。セレイド帝国はクーデターにより、内政不安定な状態であると聞いていた。その機に乗じて、報復のために長年緊張状態にあった敵国に攻め込むというのは一つの選択肢ではあった。しかし、事件の傷は深く、有力な官僚が悉く殺されてしまったことから、それだけの国力が残されているかと言われれば甚だ疑問であった。
 フェリカの実兄で唯一の肉親たる十三歳になったばかりの王太子ノウェインは、身を切るような思いで、国民の糾弾に遭うであろうことも覚悟の上で、国としての機能を立て直すことを優先した。ノウェインの即位と時を同じくして新しく宰相に就任したルーク・ゼロイアが有能であったため、次第に国内は安定を取り戻していき、両国は事件前と同様の緊張関係を保ち続けるに留まっている。

 「そんな時に、わたしたち三人は約束をしたの。この先、何があってもずっと一緒にいるって。わたしたちは何より大切な親友で幼馴染だから」
 懐かしむような表情をアイスブルーの双眸に湛え、フェリカはそう言った。彼女のその言葉にヨフィンは顔を覆う。眼鏡の縁で水滴がきらりと光った。彼はくぐもった声で、
 「いつだって、お二人の大切なものを奪ってしまうのは僕なんです……っ!今回のことだって、お二人から、ティゼル殿下と大切な約束を奪ってしまいました……っ!それに、十年前のロウェイスの王城への襲撃は、皇帝陛下から僕を守るため、祖父がやったことなんです……!全部、全部、僕のせいなんです!!」
 ヨフィンの悲痛な叫びに、フェリカはそっと彼の方へと手を伸ばす。彼女は落ち着いた声音で諭すように、
 「ヨフィン。確かにどういう理由であれ、十年前のことはわたしはロウェイスの王女として決して許すことはできないわ。先日のことだって、誰かがもし、死んだり傷ついたりしていたら……と思うわ。だけど、ティゼルはあなたにどう言ったかしら?あなたの国を憂いての行動について」
 「それは……」
 ヨフィンはたじろいだ。フェリカとヨフィンのやりとりを見守っていたケイゼスは、
 「ティゼルのことだ。お前の境遇や心情を汲んで、今までのことについて追及するような真似はしなかっただろう?あいつはそういう奴だ。自分が今置かれている立場をお前の話から理解した上で、お前の身をも案じ、姫様や俺のことをも案じ、何をどうするのが一番良いかを考えて動こうとする奴なんだ」
 他でもない俺達がそれを一番良く知っているんだ、と彼は厳しい目元を少し緩めた。フェリカは彼の言葉に頷くと、
 「そうね。そしてね、わたしもケイも今のティゼルのためにしてあげられることがあるならしてあげたい。あなたの話で、今、ティゼルが置かれている状況もわかったことだし。最初は、わたしたちは、彼を連れ戻すつもりでこの国へ来たわ。けれど、この国が彼の本来の故郷で、彼の立場を理解してしまった以上、いくら、彼がロウェイスの大切な国民で、わたしたちの大切な幼馴染であったとしても、それが正しいことなのかどうか、わからないわ。ティゼルの行く末はティゼルに任せる。だけど、せめて、一目、彼に会わせてはもらえないかしら?ヨフィン、できるでしょう?」
 「――!」
 ヨフィンは謀られたことに気づいた。この二人はティゼルに接触するための手段を欲していたのだから、当然のことではある。この数日の勝手な行動のせいで、自らの生命すら危ないという最中に、密入国してきた敵国のこの二人を秘密裏にティゼルに接触させるなど、後がどうなるか考えたら堪ったものではない。
 「……仕方ないですね」ヨフィンは渋々、頷いた。「人に同情を買わせておいて、それは卑怯です」
 「悪いな、迷惑を掛ける」ケイゼスは詫びの言葉を口にすると、ヨフィンへと頭を下げる。「それで、あの城に侵入するにはどうしたらいい?ティゼルはあそこにいるんだろう?流石に正面突破は避けたい。騒ぎになりすぎる」
 「なら、僕が転移魔法で、城の警備が手薄かつ魔法が有効なところを狙って、お二人を転送するというのはいかがでしょう?」
 「それは助かるけれど……そんなことをしたら、きっと、あなたはただでは……」
 フェリカは形の良い桜色の唇を噛み締め、俯いた。大切な親友のためとはいえ、自分自身の我儘で他人の生活や生命までをも脅かそうとしている。それは彼女としては本意ではなく、それをどうしようもできない自分がどうしようもなく情けなくて仕方なかった。傍らのケイゼスが何か言いたげに視線を視線を送ってきたが、彼女は気づかないふりをして顔を上げる。彼にばかり汚れ役を押し付けたくないという、精一杯の強がりであり、王女としての矜持だった。
 「……いえ、あなたを信じましょう。ただ、一つ約束して。どんな些細なことであっても、もし、このことであなたの身に何かあれば、どんな手段を使ってでも知らせて。あなたのことはわたしとケイが必ず守ってみせる。ロウェイス国王ノウェイン・シェーゼルの名代として、このフェリカ・シェーゼルが約束しましょう」
 ケイゼスの視線がフェリカのこめかみに突き刺さる。後で小言を言われるのは必至だ。フェリカはそう覚悟を決める。ケイゼスはやれやれといったふうに肩を竦めてみせると、
 「そういうことだ。どうか、俺からも頼む。俺たちに力を貸してくれ」
 「どうして、そんな……」頭を下げるケイゼスにヨフィンは少し青ざめた顔で唇を戦慄かせ、「……殿下は、愛されていらっしゃるんですね。それほどまでに……なのに、僕は……」
 「ヨフィン。今は自分を責めているときではないわ。あなたにも止むに止まれぬ事情があって、仕方なくやったことでも……あなたのお母様の代から続くこの呪縛にも、もうこれで決着をつけましょう。あなたもまた、被害者だもの。自由になって救われていい。それに、このことは、この国を救うことにきっと繋がっているから」
 「え……」
 「フェリカ、おまっ……それは……」
 ケイゼスは頭が痛くなる思いだった。己の監督不行き届きが咎められるであろうことも考えれば、胃も痛くなりそうだった。つまるところ、フェリカが言っているのは、セレイド帝国の現皇帝であるゼーウィン・メイティアと直接事を構えようということなのだ。ロウェイス王国に事の顛末が知れれば、宰相のルークが不眠不休で走り回ることになるのは目に見えており、最終的に事の尻拭いをさせられる彼が不憫でもあった。ケイゼスはやけくそ気味に嘆息する。
 「もうどうなっても知らねえからな……後で陛下とルーク様にしこたま叱られろよ……!」
 「さて、そしたら、わたしたちはどうしたらいいかしら?改めて、具体的な方策を練りましょう」
 フェリカはケイゼスの言葉などどこ吹く風といったふうに、にっとした王女らしからぬ笑みを浮かべて言った。ああもうこの人たらし、とケイゼスは胸中で呟く。彼はこういった彼女の勝ち気そうな表情に滅法弱く、言動が滅茶苦茶な部分はあれど、周囲を惹きつけてやまないこうした面は彼女の王族としての一種の才能なのかも知れないと彼は思っている。
 「そうですね」ヨフィンは思案気な顔で、「先程も申し上げた通り、城内のなるべく警備が薄く、かつできるだけティゼル殿下のいらっしゃる部屋の近くへ僕の魔法で転移しましょう。警備体制の確認くらいであれば、僕でもどうにかなるでしょうし」
 「ティゼルのいるところへ直接転移はできないのか?」
 「ティゼル殿下は北の塔――罪を犯した皇族が主に監禁される場所なんですが、現在、そこにいらっしゃいます。しかし、北の塔は外壁を覆う茨によって、すべての魔法が無効化されてしまうようになっているんです。なので、塔の内部へ僕の魔法で直接転移することはできないんです」
 「なるほどな」
 ケイゼスは納得したように頷く。ヨフィンは右手の人差し指で北の塔近辺のかんたんな見取り図を空に描き始めた。その頼りない指先が描いた軌跡が赤い光を放つ。彼は指先を動かしながら、
 「ここが大回廊です。この場所は昼夜問わず、衛兵がいるので要注意です。北の塔へ続く階段は、大回廊の突き当りにあるんですが、僕が考えられる範囲で一番近い警備の手薄な場所が、西の塔の図書室なので、どうしても大回廊は避けては通れません」
 「何か対応策はあるの?例えば、屋根伝いで外から北の塔に侵入するとか」
 「そんな危ないことを考えて、本当に実行する馬鹿はお前くらいだ、フェリカ。お前は本当に姫か」
 「じゃあ、ケイは何か他にいい案があるっていうの?」
 半眼で突っ込むケイゼスに、フェリカは可愛らしいが姫らしくはない所作――頬を膨らませて言い返す。
 「いや、ないけど……だけど、お前はもっと現実的な案を考えろ」
 敵国に潜伏中とは到底思えない緊張感のないやり取りを交わす年上の二人に微笑ましさと多少の羨ましさをヨフィンは覚える。彼にとっての主従関係というものは、恐怖による支配と同義でしかなかった。彼は苦笑すると、
 「大回廊の衛兵たちは僕が魔法で一時的に眠らせましょう。なので、申し訳ないのですが、術式を展開している間、僕のことを守っていただけませんか?」
 「もちろんよ。そのくらい任せて」
 と、何故かフェリカがアクアマリンの双眸にやる気を漲らせて返事をする。ケイゼスは呆れているのか、それとも単に慣れているのかわからないが、彼女の発言を聞き流し、
 「なるほど、そこさえ突破してしまえば、北の塔の内部には入れるっていうわけか。要人を閉じ込めている以上、塔の内部にもある程度、腕の立つ人員を配置しているんだろうが……まあ、そこはどうにかするしかないな。これで、一旦、ティゼルには会えるとして、皇帝の方はどうすればいい?」
 「そうですね。こちらも、陛下の居室へ直接というのは、警備が厚くて難しいので、皇族の方が非常時に使う脱出通路を使いましょう。城の排水溝を利用したものなので、他国の王族の方に使って頂くのは少々気が引けるんですが……」
 尻すぼみになりつつ、フェリカのほうをちらちらと気にしながらヨフィンはそう説明する。いかに高い身分にあろうと、軍人――騎士として、訓練を受けているケイゼスはともかくとして、一国の王女が足を踏み入れるべき場所ではない。しかし、フェリカは全く意に介したふうもなく、あっけらかんと、
 「そんなこと?わたしは別にそんなの大丈夫よ」
 「……だそうだ。姫だの何だのいっても、フェリカはこういうやつだから、臭かろうが汚かろうが、そんな些細なことを気にしたりしないから安心してくれ。ところで、その脱出通路とやらにはどこから入ったらいいんだ?」
 「地下の食糧庫の奥です。なので、一度、北の塔を出ていただいた上で、厨房の通用口から、城内に入り直すのが良いかと思います。夜、料理人たちの翌日の仕込みが終わった後であれば、厨房へは簡単に入れると思いますし、食糧庫は厨房のすぐ隣ですから、人目につくこともないでしょう」
 なるほど、とケイゼスは頷いた。彼は、
 「まあ、お前を信用するなら、今のところ、それが最善策だろうな。ところで、決行はいつにする?」
 「明日の夜はいかがでしょうか?また、ここへお伺いしますので、それまでお二人はどうかこちらで身を潜めていてください。気休め程度ではありますけど、この家に人避けの結界をかけておきます」
 ヨフィンが何事か呟くと、何もない空間にその年齢には似合わない古く使い込まれた、彼の肩くらいまでの長さのある樫の杖が現れる。彼は杖を手にすると、床に何かの紋様を描き始める。
 ケイゼスはおもむろにサーベルを抜き放つと、少年の喉元へとその切っ先を突きつけた。ヨフィンは眼鏡の奥にある大きな茶色の目を見開き、身を強ばらせた。
 「なっ……」フェリカはケイゼスの行動に絶句すると、慌てて静止に入る。「ケイ、何をしているの!」
 「フェリカ、下がっていろ」彼は己の主の咎める声に低い声で応じると、ヨフィンへと向き直る。「ヨフィン。今までのお前の話を信じるに足るものを寄越せ。返答次第では、このままお前を斬る」
 「なん……で……」
 「お前は、皇帝に近い場所で仕える人間だ。俺たちに協力するように見せかけて罠にかけようとしていない保証がどこにある?そもそも、こうして俺たち二人に接触してくること自体が、皇帝の命令でない保証がどこにある?」
 「それは……」
 ヨフィンは俯くと、杖から手を放す。ごとん、という重たい音を立てて、杖が床を転がる。ローブの襟元から小さなブローチを外し、彼はケイゼスへと手渡した。その手は小刻みに震えていた。彼が手渡したそれは、非常にシンプルな意匠のものだったが、使われている金属や技術の質から、一目でひどく値の張るものであるとわかるものだった。贈り主はさぞかし高貴な身分の人間だったのだろう。
 「……母の形見です。昔、若いころ、母が本当に愛した人から貰ったものらしいと祖父が言っていました」
 フェリカとケイゼスは一瞬、顔を見合わせる。ケイゼスは、一瞬、脳内を掠めていったとある推測を思考の角に追いやり、サーベルを下ろす。
 「……いいだろう。ヨフィン、お前を信用しよう。手荒な真似をして悪かったが、念のため、これは預からせてくれ」
 フェリカは気遣わしげな視線をヨフィンへと向ける。はい、と弱々しい顔でヨフィンは苦笑し、承諾の意を示した。
 「いきなり敵国の人間にこんなことを提案されたら、そりゃあ警戒もしますよね。ケイゼスさんのご判断は正しいと思います。ですけど……どうか、よろしくお願いします」
 「こちらこそ、わたしたちの事情に巻き込んでしまって申し訳ないわ。ケイが手荒な真似をして、ごめんなさいね。けれど、どうかよろしくお願いします。わたしたちは今、あなただけが頼りなの」
 そう言って、頭を垂れるフェリカに、ケイゼスはもう何も言わなかった。彼は己の主に倣うように、自分の得物を鞘へと収めると頭を下げた。
 「どうか、頭を上げてください」
 ヨフィンは狼狽した。促されるままに、二人が静かに顔を上げると、彼は床に落としたままになっていた杖を拾い上げた。二人が何も言わずに見守る中、彼は床に再び、杖先で紋様を描き始めた。杖のなぞった跡が淡く青い光となって浮かび上がり、術式を編み上げていく。
 人避けの結界の術式を施し終え、簡単な挨拶を交わした後、ヨフィンは部屋を辞した。その後、彼らの間に降りたままだった沈黙を破ったのはフェリカだった。
 「……ケイ。もう、さっきみたいなことは、やめてね」
 「……」
 黙ったまま、分厚い深緑色のカーテンの隙間から窓の外を窺っているケイゼスの腕をフェリカは掴み、無理矢理自分の方を向かせる。あくまで無言を貫き通そうとする彼に対し、彼女は溜め息を吐く。
 「ねえ、ケイ。ケイは、無理してるでしょう?ずっと、ティゼルが連れて行かれたときのことに責任を感じてる」
 「……事情はどうあれ、ティゼルが連れ去られたのは事実だし、俺はそれを防ぐことが、あいつを守ることができなかった。それに、フェリカのことだって、危険な目に遭わせただろ」
 ケイゼスは床を見つめながら、ぼそりと呟いた。フェリカとは目を合わせようとはしない。フェリカは頭を振ると、
 「いいえ、あなたはちゃんとわたしを逃して安全を図ろうとしてくれた。わたしのあの無茶な命令にだって、可能な限り従おうとしてくれた。ねえ、ヨフィンに対して、割り切れない部分はあるかも知れないけど、さっきのあれは行き過ぎた行為だわ」
 「俺は――お前を守るためなら何だってする。今も、昔も、これから先も、俺の人生はお前のためにある。だから――それがお前のためになるのならば、それこそ地獄にだって落ちてやる」
 「何で、今、そんなことを……」
 ケイゼスのかつてないほどに真剣な声音にフェリカはたじろいだ。強い決意を持った男の声だった。そんな彼の顔を彼女は今まで知らなかった。ケイゼスはフェリカを見据えた。強い瞳だった。
 「今、こんなときだからだ。この先、どんなことがあっても、俺はお前のことを守りたい。 お前には絶対、傷ついて欲しくないんだ」
 ケイゼスは低い位置にあるフェリカの頭を有無を言わさずにぐっと引き寄せ、腕の中に包み込んだ。彼女はされるがままにそれを受け入れ、抵抗しなかった。服越しに体温といつもより少し早い鼓動がお互いの身体に伝わっていく。
 部屋の中に再び沈黙が降り、二人はしばらくそのまま動かなかった。静かすぎる街を闇が包み込もうとしていた。
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