Promise

モドル | ススム | モクジ

  前編*交わした願いは時間の中で  

「姫様、いらっしゃいますか。ティゼルです」
 簡素な意匠だが質の良い落ちついた茶色の官服に身を包んだ中肉中背の黒髪の少年は、豪奢な装飾の施された扉の前で足を止め、花を模した可憐なドアノッカーを鳴らしながら、穏やかな声音で中にいるであろう部屋の主を呼ぶ。程なくして、内側からのカチャリという解錠音とともに扉が開き、この城で働くメイドのエプロンドレス姿に身を包んだ同い年くらいの顔見知りの少女が顔を覗かせる。
 「あら、ティゼルさん。姫様に何かご用でしたか?」
 ティゼルは手に持っていた籐のバスケットを王女付きの茶色い巻き毛のメイドの少女へと手渡した。バスケットの上に掛けられた白い清潔な木綿の布の下からは色とりどりのベリーが顔を覗かせており、甘酸っぱい芳香を放っている。
 「セリアさん、義母からです。庭のベリーがたくさん採れたので、是非、姫様に、と」
 「姫様が喜びます!ロナ様にお礼を伝えておいてくださいね。ジレイド様にもどうかよろしくお伝えください」
 わあ、と歳相応の歓声を上げ、セリアは新緑の双眸を輝かせながらバスケットを受け取る。
 ティゼルの義母であるロナ・アルフォーンはかつて、第一王女であるフェリカの乳母を務めていた。フェリカの成長に伴い、四年前にその職を辞してからも、夫である下級文官のジレイドと共に政務のため、定期的に王城へと赴いている養子のティゼルを通じて何かとやりとりを続けている。
 「それであの……ティゼルさん、姫様なんですけど……」セリアは申し訳無さそうな顔をする。「来て頂いて申し訳ないんですけれど、先ほど、ティゼルさんが来ている日のはずだから会ってくる、と……」
 「つまり……」ティゼルは苦笑する。「行き違いということですね。まったく、姫様らしいというか……」
 「ええ……。姫様のことですし、じきにお戻りになると思いますから、それまでよろしければ中で……」
 「あっ、ティゼル!やっと見つけたわ!」
 軽やかな靴音と共に澄んだ鈴のような少女の嬉しげな声が廊下へと響く。ティゼルはセリアと顔を見合わせると、やれやれと小さく肩を竦める。礼儀作法の教師から徹底した淑女教育を受けているはずであるにも関わらず、その姫君らしからぬ立ち居振る舞いは淑やかさの対極にあり、いっそ騒々しいといってもいい。昔から変わらない幼馴染に対して、胸中で嘆息しながら、ティゼルは彼女の方へと振り返り、その名を呼ぶ。
 「姫様――フェリカ様」ティゼルは恭しく頭を下げながら、「何も自らお探しにならずとも、お呼び立て頂ければ、こちらから出向かせて……」
 「あーもうっ」フェリカはティゼルの言葉を遮ると、ずいと薄紅に彩られ、年頃の高貴な身分の娘らしく美しく整えられた白く細い滑らかな指先を鼻先に突きつける。ぷう、と年齢不相応に不満気に頬を膨らませ、「だって、早く会いたかったんだから仕方ないじゃない。というか、ティゼルのくせにそういう他人行儀なのやめてよね。ティゼルのくせに」
 「ですが」一息にまくし立てた彼女へと彼はなおも言い募ろうとしたものの、彼女に睨まれ口籠る。しかも、心なしか二回もティゼルのくせにと言われたような気がする。「……」
 「で」彼女はセリアの手に握られた、仄かに甘酸っぱい芳香を発しているバスケットに視線を向けながら、「ティゼルは何の用事?ロナのお使い?」
 「はい。庭のベリーがたくさん採れたので、是非、フェリカ様へと義母に持たされました」
 「そうなの、嬉しい」
 先ほど、セリアへした内容と同じ説明をティゼルがフェリカにすると、彼女は、ロナの家のベリー昔から好きなのよね、覚えていてくれて嬉しいわと顔を綻ばせる。いつものこととはいえ、あまりに奔放過ぎる主の体面を慮ったのか、セリアが、
 「ティゼルさんのご都合がよろしければなのですが……せっかくですし、中でお茶でもいかがでしょう。姫様、よろしいですよね?」
 「もちろん。ティゼルなら大歓迎よ」
 ティゼルはお言葉に甘えて、と軽く頭を下げると誘われるまま、扉の細工以上に豪奢な姫君の居室へと足を踏み入れた。
 「どうぞ、座って。セリアにすぐお茶の支度をさせるから」
 いつも通り、ティゼルはうっかりお茶を零しでもしようものなら、彼の一生涯の給金を注ぎ込んでも到底弁償しきれないであろう、見るからに高価そうなソファを勧められ、腰を下ろした。柔らかすぎず硬すぎない絶妙な座り心地が逆に居心地が悪い。フェリカは茶器の用意のため、隣の続き部屋に姿を消したセリアへと指示を出そうとし、ふと何かの気配を感じたような気がして背後を振り返る。しかし、そこには高名な画家による精妙な筆致で描かれた湖畔の風景画が繊細な金細工の額縁に収まって、壁から掛けられているだけで、特に何があるというわけではない。
 「フェリカ様?」
 訝るように声を掛けてきたティゼルに対して、何でもないわと首を横に振ると、フェリカは磨き上げられて飴色に光るローテーブルを挟んだ向かい側へと、軽やかな薄緑色のシフォン生地のドレスの裾を整えながら腰を下ろす。この時、二人はテーブルの下のビロードの絨毯の紋様に紛れるようにして、うっすらと浮かび上がってきているものの存在に気づいていなかった。
 程なくして、隣室からセリアがワゴンを押して戻ってくると、美しい花の意匠の施されたティーカップへと、揃いのティーポットから甘い果物の香りのする湯気の立ち上る、琥珀色の液体を注ぎ始めた。せっかくなのでロナ様から頂いたベリーを使ったフレーバーティにしてみたんです、とセリアが言いながら、ソーサーとともにカップをティゼルの前に置こうとした瞬間、轟音とともにテーブルの下から閃光が迸った。宙でカップが割れ、破片とともに琥珀の液体が撒き散らされて絨毯に点々と染みを作る。ソファは部屋の隅まで吹き飛ばされ、テーブルは真っ二つに割れている。フェリカは咄嗟の判断で、ティゼルとセリアを突き飛ばし、自身もその反動を利用して壁際まで飛び退る。
 「きゃ……!」
 「ケイ!」
 突然のことにセリアが悲鳴を上げるより早く、フェリカが鋭い声で、隣の控えの間で待機している己の護衛の愛称を呼んだ。フェリカやティゼルよりほんの少し年上と思しき、近衛騎士の制服に身を包んだすらりとした長身の金髪の青年が姿を現し、後続の事態に備えて鞘からサーベルをすらりと抜き放つと、主を含む三人を背に庇う。テーブルがあった場所には複雑な文字と紋様からなる魔法陣が浮かび上がり、血液と同じ色の禍々しい輝きを放っている。魔法陣の中にぼんやりと漆黒のローブを纏った小柄な人影が浮かび上がる。はっきりと顔は確認できなかったがまだ年若い少年のようで、どことなく知っている誰かに似ているような気がした。その人物のローブの胸には隣国のセレイド帝国の宮廷魔導師であることを示す紋章があった。
 「――っ!」
 フェリカは双眸を見開くと、へなへなと床に座り込む。その華奢な身体は哀れなほど震え、白皙の美貌は白を通り越して真っ青になっていた。
 魔法陣とセレイド帝国と魔導師。その三つは十年前、前国王夫妻をはじめとする国内の要人がセレイド帝国の刺客により殺害されたあの事件の再来を想起させるものでしかなかった。
 「――ミツ……ケタ……」
 魔法陣野中の人影はそう呟くと、あまりの事態に身を強ばらせていたティゼルの腕を掴み、引きずり込もうとする。
 「ティゼル!!」フェリカが床に座り込んだまま叫ぶ。「ケイ、ティゼルを!お願い、ティゼルを助けて!!」
 彼女の悲鳴のようなその言葉に。ケイゼスは一瞬身体が動きかけたが、すんでのところで思い留まる。ティゼルはケイゼスにとって、フェリカ同様、大切な幼馴染だ。できることなら助けてやりたいのはやまやまだが、今の彼は第一王女フェリカ付きの近衛騎士だ。この何が起こるかわからない状況下で、フェリカの身の安全を二の次に、ティゼルを優先することは決して許されない。彼は、くそ、と口の中で毒づくと、己の意志に反して、主の指示を冷静な口調で拒み、諭そうとする。
 「姫様。そのご命令には従えません。今は姫様の身の安全が第一です。どうかご理解ください」
 「っ、嫌!!ティゼルっ……!ねえ、ケイ、これは命令よ、わたしのことなんてどうでもいい、ティゼルを守ってよ!ねえっ……!!」
 そのアイスブルーの双眸から涙を溢れさせながら喚く彼女の腕を掴んで、ケイゼスは無理やり立ち上がらせると、表情同様険しい声音で、
 「姫様――フェリカ、しっかりしろ。お前は逃げるんだ。お前の身に何かあれば、この国にとって一大事になる、理解できるな?このまま、父上のところまで行って、事情を話して守ってもらえ。ティゼルは――俺がどうにかする」ケイゼスは震えるフェリカを支えるようにして、怯えた顔で立っているセリアへと向き直り、「セリアさん。フェリカを頼みます。団長に事情を話せば守ってもらえるはずです。あと、できればここに応援を寄越してもらえるように言ってもらえると」
 セリアが頷き、フェリカの手を引いて、部屋を飛び出していったのを確認すると、ケイゼスは使い慣れた支給品のサーベルを構え、魔法陣の中に浮かぶ人影と対峙する。魔法陣の中の人影は何事か唱えながら、宙へと文字を綴っている。ティゼルの身体はもう完全に魔法陣の中へと取り込まれてしまっていた。
 「ティゼル!!今助ける!!」
 ケイゼスが気合とともに、魔法陣の中の人影へと切りかかった。刹那、術式が発動したのか、魔法陣は煌々とした閃光を放ち、何事もなかったかのように、忽然と姿を消した。そこにはもう、ローブをまとったセレイド帝国の小柄な魔導師もティゼルもおらず、ただ変わり果てた部屋の惨状があるだけだった。
 魔法陣が消える瞬間、ティゼルが叫んだ言葉だけが、しんと静まり返った部屋の中、ケイゼスの耳の奥で響いていた。
 『ケイ、お願い、フェリカ様を守って――!』 
 ケイゼスは何の役にも立たなかったサーベルを鞘に戻しながら、きつく唇を噛んだ。

 フェリカはセリアと共に、近衛騎士団長の執務室に通され、勧められた椅子へと腰掛け、祈るように指を組んでいた。城の中が騒がしくなっているのを聴覚で捉えながら、涙まじりの悲痛な声で、今この場にいない幼馴染の二人の名を呼ぶ。
 「ティゼル……。ケイ……。無事でいて……」
 見かねたのか、短く刈り込んだ金髪の強面の壮年の男がフェリカの前に膝を折る。その屈強な身を包む近衛騎士の制服に多くの徽章を付けた堂々とした佇まいの彼は、近衛騎士団長のエージェフ・クレイルである。この場にいない幼馴染の父親でもあり、面倒見の良さそうな眼差しがよく似ている。
 「姫様。うちの愚息もティゼル君も必ず戻ります。先程、あいつの部下たちを応援に向かわせましたから、心配ありません。姫様、どうかご安心ください」
 優しい口調で宥めるように彼がそう言うと同時に、執務室の扉が開かれる。フェリカは椅子から弾かれるように立ち上がり、その名を呼ぶ。
 「……ケイ」ティゼルがいない。そのことに気づき、フェリカはケイゼスの腕に縋り付く。「ティゼル、は……?」
 「……申し訳ございません。姫様」
 「ケイゼス・クレイル副団長。状況を報告しなさい。他の者はもう下がってよい。ご苦労だった」ケイゼスの背後に付き従っていた彼の部下の騎士たちが去ったのを確認すると、近衛騎士団長は少し語気を緩め、再びケイゼスへと問うた。「ケイゼス。状況は?ティゼル君はどうした?」
 「……父上。姫様。大変申し訳ございません。曲者は――セレイド帝国の魔導師は魔法陣と共に消えました。ティゼルは魔導師によって魔法陣に引きずり込まれ、連れ去られました」そこまで一息に感情を抑えるように淡々と告げると、ぎりぎりと拳を握りしめ、ケイゼスは俯く。「俺は……俺には……何もッ……」
 「ケイ」フェリカはそっと細く白い指先で優しく彼の目元に触れる。彼女の指先を熱を持った滴が濡らしていた。「ケイは何も悪くない。だから、そんな顔しないで。ごめんなさい、ありがとう。ケイだけでも無事でいてくれて良かった……」
 「姫様……」
 何も言えずにフェリカのそばに控えていたメイドの少女へと近衛騎士団長は目配せをし、
 「セリアさん、姫様が休めるように、警護の厚い区域に部屋を手配してくれ。陛下へはその旨を私から報告しておく。護衛の騎士たちも手配しておこう」
 「かしこまりました、エージェフ様」
 エプロンドレスの裾を広げて一礼し、己の主を心配そうに見やりながら、セリアはエージェフから与えられた指示のため、執務室を出ていく。エージェフはフェリカとケイゼスに向き直り、
 「姫様、今、安全なところに新しい部屋を用意しておりますので、こちらでもう少々お待ちいただけますか。手狭なところで申し訳ありませんが……。ケイゼス、引き続きお前は姫様の傍を離れずついていてもらうが、姫様の部屋の支度が調うまで、もう少し詳細を話してもらうぞ」
 「はい、父上」
 ケイゼスがエージェフに対して、事のあらましを細かく話しているのを聴覚の隅でぼんやりと捉えながら、己の掌に整えられた薄紅色の爪を立てた。もう自分は十年前のあの時とは違って、怯えて泣いているだけしかできない、小さなか弱いだけのお姫様ではない。絶対にティゼルを助け出してみせる、フェリカはそう決意した。

 「お兄様!」
 流れる絹糸の髪とレースをふんだんにあしらった勿忘草と同じ色のドレスの裾を翻し、フェリカは兄王の執務室の扉をばんっ、と勢いよく開け放った。書類が山のように積まれた執務机で、長い黒髪を束ねた男と何やら深刻そうな表情で話し込んでいた二十代前半と思しき柔和な顔立ちの金髪の青年は彼女へと視線を向けると、深々と溜め息を吐いた。
 「……フェリカ。ノックくらいしなさい」
 常々言っているように王女なのだからそれに見合うだけの気品と淑やかさをなどと彼が小言を畳み掛けようとするのをフェリカは遮り、
 「お兄様。ティゼル・アルフォーンの件、どうなさるおつもりですか!下級とはいえども、我が国の官職にある者に手出しをしたセレイド帝国を見過ごすおつもりなのですか!」
 「フェリカ。その件については私も今、ルークと話していたところだ」彼は黒髪の落ち着いた面持ちの男へと目配せをする。「ルーク。フェリカに説明を」
 「承知いたしました。陛下」ルークは興奮冷めやらぬ様子のフェリカへと向き直り、慇懃な口調で「よろしいですか、フェリカ様。端的に申し上げますと、ティゼル・アルフォーンの身柄を取り戻すためにセレイド帝国との間に現在戦端を開くことはいたしません。陛下やフェリカ様、国内の他の要人の方々がご無事であったことから、今は事態を静観すべきと判断いたしました。この度のティゼル・アルフォーンの件はまだ発端に過ぎない可能性や、本来狙われていたのはフェリカ様ご自身であった可能性も考慮いたしますと、現段階で兵を動かし、陛下やフェリカ様の周辺が手薄になったところで何かあればそれこそ大事です。どうか、ご理解ください」
 「……つまり」フェリカの声音が低く硬質なものへと変わる。アイスブルーの双眸の奥には反対色の怒りの炎が揺らめいているようだった。彼女は二人の男をきつく睨み据えると、「つまり、それは国の方針として、ティゼルのことを見据えると言っているのね?」
 「フェリカ、落ち着きなさい。今、一番に優先しなければいけないことは何なのかよく考えなさい」
 兄王の諭すようなフェリカを宥めようとする言葉は、かえって彼女の神経を逆撫でしてしまったようだった。彼女は烈火のごとく激しい口調で言い返す。
 「優先すべきは国民一人ひとりの身の安全です。健やかな暮らしです。宮廷での身分の問題以前にティゼル・アルフォーンは、この国ロウェイスの大切な国民の一人です。その国民に手出しをされて黙っていて、何のための王族ですか。何のための国政ですか」彼女は勢いよく、そう畳み掛けると、凛と言い放つ。「……お兄様。あくまでお兄様が動いてくださらないとおっしゃるのでしたら、たとえわたくし一人でもティゼル・アルフォーンの身柄を取り返してみせます。国が彼を見捨てようとも、わたくしは決して彼を見捨てません」
 「フェリカ、待ちなさい」
 兄王の静止も聞かず、ばんっ、という乱暴に扉が閉められる音と共にフェリカは髪とドレスの裾を翻して王の執務室を出ていった。その立ち居振る舞いはおよそ姫君のものとは思えない無礼なものであったにもかかわらず、燃えるような決意に満ちた凛とした後ろ姿には気品すら感じられ、戦女神を想起させられるようだった。どうしてあの子は王女なんかに生まれちゃったかなあ、と若き王――ノウェインは独りごちる。彼女は王族として生きるには、些か人として真っ直ぐ過ぎ、正しすぎる。為政者としてはきっと、とても生きづらい。
 「……どうなさるおつもりですか、ノウェイン様」
 フェリカの姫君らしからぬ勇ましい後ろ姿を見送りながら、そんなことを宣っている主へとルークは半眼で問うた。妹が妹なら兄も兄である。金髪の青年王は溜め息を吐くと、
 「……近衛騎士団長と副団長を呼びなさい」
 「仰せのままに」ルークは隣の控えの間の小間使いへと声を掛け、要件を伝える。小間使いが出ていったのを確認すると、彼はぼそりと「……ノウェイン様はフェリカ様のこととなると本当に甘い」
 「何のことだろうか、ルーク」
 あくまですっとぼけてみせるノウェインに、彼はこのシスコンめと胸中で毒づきながら、
 「あの親子を呼んだということは、さしずめ、ケイゼス・クレイル副団長に道中の警護をさせた上で、フェリカ様がセレイド帝国へ乗り込むことを容認するおつもりなのかと。いくら発端が先方にあるとはいえ、ともすれば国際問題に発展し、戦争となる可能性だってあります。それに、ここでお止めせずにフェリカ様の御身に何かあればどうなさるおつもりですか」
 「まあ……何か問題が起きれば、ルークがきっちり最善の方法で処理してくれるだろう?それにフェリカに万が一何かあれば、そのときはルークの従姉妹君のレノーラ嬢との婚礼の儀の日取りを早めることにするよ」
 飄々と宣うノウェインに対し、ルークは頭を抱える。しばらく胃薬と頭痛薬が手放せなくなりそうな予感がした。
 「……仰る通り、それで諸々のことは滞りなく回るでしょう。しかし、ノウェイン様はフェリカ様のことが大切ではないのですか。ご心配ではないのですか」
 「フェリカのことは大切だ。この世でたった一人の愛する妹だ。……だからこそだよ、ルーク」ノウェインはフェリカと同じ色の双眸に慈しむような表情を浮かべ、「フェリカは十年前の事件で大切な人を――父上と母上を亡くしている。だからこそ、今回のティゼル・アルフォーンの件はあの子にとって、十年前と重なってしまって仕方ないんだろう。あの子は、十年前のあのときからずっと、大切な人を失う恐怖を抱え続けている。彼はあの子にとって大事な幼馴染だからね、失いたくないんだよ。私はもう、あの子には二度とあんな思いはして欲しくはない。だからこそ、あの子を――フェリカを行かせてやろうと思うんだ。無事にあの子たちが三人で笑顔で帰ってきてくれることを祈って、ね」
 王の私には決してできることではないし、フェリカの言うことも一理あるからね、とノウェインは寂しげに笑った。それに子供のときに護身術としてちょっと剣を習わせたら何の間違いか並の騎士より強くなっちゃったしきっと滅多なことは起きないよ、などと宣う主に対し、ルークは深い青の双眸に何とも言い難い色を浮かべ、
 「……ノウェイン様のお考えはわかりました。しかし、仮にも一国の姫君が不在で、表向きの理由が不明というのはいかがなものかと……」
 「それならば、この件に心を痛め、ゼロイア家の別荘に身を寄せ、静養しているということにしておけば体外的には問題はないだろう」
 未来の義姉に時々話し相手になってもらったりしながらな、などと適当なことを宣うノウェインにルークはこの兄にしてあの妹ありだとこめかみにちくちくとした痛みを感じた。後で小間使いが戻ってきたら、早急に医務室に薬を取りに行ってもらおうなどと彼が考えていると、扉の外からノッカーが鳴らされ、壮年の男の野太い声が響いた。
 「陛下。宰相閣下。近衛騎士団長エージェフ・クレイル並びに副団長ケイゼス・クレイルが参りました」
 「お入りなさい」
 ルークが扉の方へそう声を投げかけると、今度は静かに扉が開かれ、近衛騎士の中でも高い地位にあることを示す制服に身を包んだ金髪を刈り込んだ強面の壮年の男と、対象的にすらりとして清涼感があるが、彼と親子であることがよくわかる似た目元を持つ好青年が姿を現した。
 「エージェフ・クレイル団長」ノウェインが神妙な面持ちで壮年の男の名を呼ぶ。「ご子息であるケイゼス・クレイル副団長へと私から一つ使命を与えたいのだが、よろしいだろうか」
 「陛下直々の勅命とあらば、喜んでお受けいたしましょう」
 エージェフが恭しく頭を垂れる。ケイゼスもそれに倣う。
 「ケイゼス・クレイル副団長。君にはかねてより、妹の警護をしてもらっていたと思う。先日のティゼル・アルフォーン君の件については、私としても残念に思うけれど、よく妹を守りきってくれた。君の働きには感謝しているよ」
 「……私にはもったいないお言葉です、陛下」
 ケイゼスは唇を噛みしめる。セレイド帝国の魔導師にティゼルを何もできずに連れ去られてしまったその一件について、彼は悔しくて仕方なかった。職務の都合上、どうしてもフェリカの身の安全が最優先であったとはいえ、もう一人の大切な幼馴染である彼のことも守り抜きたかった。
 「その件についてなのだけれど、フェリカがティゼル君の身柄を絶対に取り戻すと言って飛び出していってしまって」
 ケイゼスは内心で頭を抱えた。ケイゼスは内心で頭を抱えた。ケイゼスとて、近衛騎士団副団長などという立場さえなければそうしたい気持ちは痛いほどわかるので、フェリカの真っ直ぐさが羨ましくもあった。しかし、日頃からその警護を務める身としては、あの奔放に生きているお姫様はどうしてこうにも無鉄砲なことばかりしでかしてくれるのだろうという気持ちでいっぱいだった。
 「なので、ケイゼス・クレイル副団長には、これからフェリカの足取りを追ってもらい、あの子を守り、無事に連れ帰ってきてほしい。但し、ティゼル・アルフォーンも一緒にだ」
 ケイゼスはペリドットの瞳を見開いた。願ったり叶ったりではあったが、信じられない思いでいっぱいだった。
 「その命、確かに承りました。陛下」
 ありがとうございます、と彼は口の中で小さくそう呟いた。

 あたかも森であるかのように意匠も様々な色とりどりのドレスが生い茂った衣装部屋の明かり取りの窓を開けると、風の吹き抜けていくその細い空間へと、華奢な体を彼女はねじ込んだ。結い上げた金の髪と頭頂部を飾る白いレースのリボンが強風に煽られてたなびく。彼女はふう、と息を吐くと、無駄に装飾が施されて突起の多い窓枠を勢いよく蹴り、向かいの塔の屋根へと猫のような身のこなしで飛び移る。いくつかある城門から遠く、騎士たちの警備の手薄な城壁の辺りに見当をつけると、彼女は腰に巻きつけていたロープを解き、危なげなく手慣れたふうに手頃な場所に結びつけ、強度を確認した上でロープを辿って降りていく。二階分くらいの高さまで降りると、塔の外壁を蹴って、手近にあった木の太枝へと飛び移る。それを更に足場にして、軽々と飛び上がると城壁の上へと着地する。それと同時にふう、という溜め息が城壁の下から聞こえ、彼女はあからさまにやばいといったふうな顔でその人物の名を呼ぶ。
 「ケイ」
 「……フェリカ、お前、いい年してお転婆も大概にしておけよ。警護する方の身にもなれって。もうお姫様なんて職業、いっそ廃業して、暗殺者か曲芸師にでもなったらどうだ」
 「……考えておくわ」フェリカはケイゼスの苦言と軽口の入り混じった言葉を受け流すと、「そんなことより、なんでケイがこんなところで待ち伏せしてるのよ」
 「お前なあ、何年の付き合いだと思ってんだよ。お前のやりそうなことくらい、大体想像つくって」
 「……だったら、わかってるでしょうけど、わたしはティゼルを取り返しに行くわよ。どうせ、お兄様の命令で連れ戻しに来たんでしょうけど、ここは行かせてもらうわよ」
 フェリカは好戦的な光をアイスブルーの双眸にちらつかせる。ケイゼスはやれやれといったふうに肩を竦めてみせると、
 「それが、お前がティゼルを取り返しに行くなら、道中のお前の護衛をして、無事にティゼル共々連れ帰ってくるように仰せつかった。……ったく、陛下も何を考えていらっしゃるんだか、本当にフェリカには甘いよな」
 「お兄様……」
 フェリカはそびえ立つ王城を振り返り、口の中で小さく、ありがとうと呟いた。そして、装備を整えた後の馬を二頭従えて、石造りの城壁に凭れ掛かるようにして立っているケイゼスへと、フェリカは牛の革を鞣して作られた茶色の手袋に包まれた手を伸ばす。
 「じゃあ、行きましょう。ティゼルのところに。ケイ――ちゃんと一緒に来てよね」
 「はいはい、お姫様の仰せのままに」ケイゼスはフェリカが城壁から飛び降りるのに手を貸してやる。彼は彼女の服装と荷物を見、「フェリカ、その服どうしたんだ?あと荷物も」
 「服はこっそりセリアの私服を借りてきたの。それ以外は騎士団の備品をこっそり拝借してきたんだけど、何か問題ある?」
 悪びれたふうもなく、フェリカはそう宣うと、決して質が悪いわけではないが、普段のドレスに比べると格段にシンプルなワンピースの裾を摘んでくるりと軽やかに一回転してみせる。仮にも一国の王女である彼女がこうにも手癖が悪く育ってしまったのは、一体誰の教育が悪かったのだろうとケイゼスは頭を抱える。そして、たまに騎士団の備品の棚卸しの際に、数が合わない原因の一端を垣間見たような気がした。日々、奔放な彼女に振り回されっぱなしのセリアには同情しつつ、騎士団の備品の管理の徹底については、この任務から戻り次第、父である近衛騎士団長に強く進言しようと、彼は心に決めた。彼は、気を取り直したように、
 「フェリカ。一応確認だけど、お前、一人で馬乗れたよな?あと、今もまだ、剣も多少は使えるな?」
 「当たり前でしょ。乗馬くらい、余裕だし、剣だってその辺の新米騎士くらいだったら負かす自信あるわよ。……そういえば、先月、どこかの小隊長と分隊長の喧嘩の仲裁に入ってうっかり勝っちゃったような」
 「……」
 時々、熱烈なまでの第一王女崇拝派がいるような気がしていたが、日々のこうした言動の積み重ねが原因かとケイゼスは悟った。この通り、レイピアもダガーも一応持ってきてるわよ、と荷物を指し示して胸を張ってみせる彼女に彼はなんだかなあと思う。旅の道連れとしては申し分なく、頼もしいことの上ないのだが、世間一般的なお姫様というのは、一人で馬になど乗れず、何かあったときには騎士に守られる可憐でか弱い生き物なのではないのだろうか。少なくとも、子供のときに絵本で見たお姫様はそういったものであった気がするし、ケイゼスが幼心に憧れた姫君と騎士の主従関係もそんなステレオタイプ的なものであったと記憶している。
 フェリカが危なげなく鐙に足を乗せ、茶色の外套の裾をふわりとはためかせながら慣れたふうに一人で鞍に跨って手綱を掴んでいるのを見ながら、ケイゼスはなんだかなあと思いながら、自分の馬へと跨った。二人は視線を交わし合うと、馬を走らせはじめた。

 第一王女であるフェリカはもちろん、その護衛の近衛騎士団副団長であるケイゼスも王都では顔が知れ渡っている身である。そんな二人が旅姿で他に護衛や世話係も連れずに王都を出奔したと知れては騒ぎになる。それを避けるため、外套のフードでなるべく顔を隠しながら、二人は極力人目の少ない裏路地を選んで王都ロルヌの城下町を馬を走らせ、駆け抜けた。
 街道へ出ると、ケイゼスは自分の馬をフェリカの横へつけ、彼女へと薄茶のストールを放って寄越した。フェリカは手綱を操りながら、器用にそれを革の手袋を嵌めた指先で受け止める。ケイゼスは視線を進路へと向けたまま、何気ないふうを装って、
 「それで口元覆っとけ。砂埃吸い込むぞ。それに肌が傷む」
 えー、とフェリカは口先でだけは不満そうにしながらも、ケイゼスに言われた通り、素直に柔らかそうな生地のストールで顔の下半分を覆う。お前はお姫様とかそういうの以前に女として気を遣わなさ過ぎだの何だのと小言めいたことをぶつぶつと呟いているケイゼスをフェリカは睨んだ。
 「どう?これで何か文句ある?」
 「……いいえ、滅相もございません、姫様」
 ストール越しのくぐもった声でそう言ったフェリカに対し、ケイゼスはおどけたようにわざとらしい片言で切り返す。フェリカは不満げに頬を膨らませ、
 「どうせ、ここにはわたしたち以外いないんだし、姫様とか敬語とかやめてよね。そもそも普段も他に人がいないときはそうしてるんだし。主とその護衛とかそういうの以前にわたしたち幼馴染でしょう?ティゼルもケイも」
 「はいはい」
 適当にケイゼスは彼女の言葉を受け流しつつも、胸中でその単語を反芻し、苦々しい気持ちになる。彼女の言葉に嘘偽りこそないが、ケイゼスはいつも傍に控え、彼女の視線と気持ちがどこに向けられているのかを知っている。きっと彼女自身は自覚しておらず、彼だけが知っていることだった。ちぇっとケイゼスは声には出さずに毒づくと、表面上はなんでもないふうを装って、ところで、と話題を切り替える。
 「フェリカ。今、セレイドに向かって北上していっているのは分かっているだろうけど、この旅の方針として、必要最低限の物資調達を除いて、なるべく街や村は避けて通ろうと思う。本来、お前のような身分の奴にさせるべきことじゃないのはわかってるけど、必然的にこの旅は野宿の多いハードなものになる」
 「別に構わないわ」フェリカは二つ返事で了承する。「ケイのことだから、ちゃんと考えがあって言っていることでしょう?」
 「ああ」ケイゼスは頷く。「先のセレイドの魔導師による事件で、第一王女フェリカは心を痛め、体調を崩されたため、宰相閣下の所有する別荘で静養されていることになっている。お前の影武者がゼロイア領に向かう予定だけど、念のため、王女に似た人物が全く別の地方で目撃されたりするような事態はなるべく避けたい。お前の身の安全を守るためだ、フェリカ」
 いちいち言葉にしてもらわなければいけないほど、もう子供ではないし、愚かなお姫様でもないと、わざわざ説明するケイゼスに内心で反発を覚えつつも彼女は頷いてみせる。ただでさえ彼とは幼い子供のときからずっと一緒にいるのだから、彼の考えそうなことなど、大体はわかっているつもりだ。
 「フェリカ」
 「何よ」
 危なげなくフェリカは馬を操りながらケイゼスを振り返る。外套のフードの中、アイスブルーの瞳の奥で落陽が揺れていた。
 「お前さ、無理するなよ」
 「……何のこと?」
 「ティゼルのことだ。その……」
 後ろに続けかけた言葉を彼は咄嗟に濁して喉の奥に飲み込んだ。俺もいるんだし、なんて今の彼女に言えるはずもない。彼は彼女の視線と心の向く先を知っている。いつまでも変わらない子供のままではないのだ。ケイゼスはそのことに微かな苛つきとほろ苦さを感じる。
 「無理はしてないわよ。ティゼルのことは絶対にどうにかする。当たり前でしょう?それにこれはいいきっかけだとも思ってる」
 「きっかけ?」
 「ほら、わたしは今まで王城の中のことと、せいぜいたまに抜け出して遊びに行く王都のことくらいしか知らなくて、それ以外のところなんて深く見る機会なんてなかったでしょう?今回、他の街や村にはろくに寄れないとはいえ、それでも王城にいるよりはずっと近くで、この目でこの国や隣のセレイド帝国の様子を確かめられる」と、そこで彼女はそこで表情を綻ばせると、少しいたずらっぽく「っていうのは建前で、王城みたいな窮屈なところから開放されてちょっとすっきりした気分。お姫様するのも肩凝るのよね」
 そんなことをぬけぬけと宣う彼女に、ケイゼスは馬上で器用に片手でこめかみを押さえた。つっこみどころが多すぎて最早どこからつっこんだらいいのかわからない。彼女がこっそり王城を抜け出す度に始末書を書かされるのは他でもないケイゼスだし、そもそもあんなに奔放な生き様のお姫様には窮屈も肩凝りも無縁ではないのか。そもそもこの女は昔からこういう奴だったし、最早このじゃじゃ馬のどこにお姫様の要素があるんだろう。彼女の心配をした自分が馬鹿だった。
 「ね、ケイ。セレイド帝国までは遠いんだし、もっと気楽に行きましょう。そうじゃないと、気持ちも身体も保たないわよ」
 気遣ったつもりが逆に気遣われてしまい、お前のせいだからな、と今この場所にいない幼馴染に対して彼は内心で毒づいた。セレイド帝国の目的が何であれ、どうか彼が無事であってほしいとケイゼスは思う。強がりでわがままなお姫様が傷ついてなく姿は見たくない。
 「……今日は次の村の手前で野宿にするからな。安全に進めるのはその辺りまでだろう」
 「そうね」
 フェリカは頷くと、小さな声でありがと、と呟いた。ケイゼスは気づかなかった。
 荒野を吹き抜ける風のように駆ける馬上の二人の影が大きく伸びる地平線が夜の始まりを告げていた。

 ケイゼスの宣言通り、日が沈み切る前には、街道から少し道を外れた草地で二人は馬を止めた。王都からずっと何時間も走り通しだった二頭の駿馬は近くの木に繋がれ、水を与えてもらうと、全く疲れたふうもなく、呑気な顔で辺りの草を食み始めた。
 ケイゼスは鞍に括りつけた荷物から、私物であるやや小さめな天幕を下ろして張る。その一方で、フェリカが周辺から薪になりそうな枝を拾い集めてきて、手早く火をおこしていた。彼はその様を自身の作業の傍らで横目で眺めやりながら嘆息する。
 「……本当、何でお前、お姫様なんてやってんだ……その辺の新米騎士より、よっぽど手馴れてるし出来が良いぞ……って!」
 「何?どうしたのよ?」
 「……貸せ。そこまでしなくていい」
 いつの間に捕まえていたのか、夕飯にするつもりだったのだと思われる茶色い毛並みの兎をフェリカの左手が掴んでいた。その白くほっそりとした右手には解体用のナイフが握られている。
 ケイゼスは彼女から有無を言わさずそれらを奪い取った。いくら騎士団から支給されている固形食料が固くて不味くて物足りないとはいえ、このような血生臭い作業を一国の王女にやらせるわけにはいかない。彼女が捕まえてきた兎をケイゼスが解体し、食べられる部分と食べられない部分に分ける作業をしているのを後ろから彼女が覗きこみ、
 「わたし、別にこのくらいの作業、自分でできるし、何てことないわよ。ケイが新兵訓練で野営の講義してたときに何回も見ているし」
 その言葉に嘆息するケイゼスを横目に、彼女は彼が解体した肉に塩と香草で下味を手早く付け、串刺しにして火で炙り始める。日頃から認識していた以上の彼女の逞しさには最早感嘆すら覚えずにはいられない。最近の新米騎士たちときたら、火を起こすだけでも下手をすれば三十分以上かかるし、捕まえた獲物の解体作業など泣き出す者や倒れる者すらいる辺り、少しはフェリカを見習って欲しいような気がしないでもない。しかし、今後の旅を共にする相棒としては心強い限りではあるものの、何をどう考えても世間一般的な王女とその護衛の騎士というのはこんなふうであるはずがない。絶対に違う。何かがおかしい。
 香ばしく焼き上がった串焼き肉を頬張りながら、フェリカが、
 「明日もこのまま街道を北上していくんだと思うけど、どうするの?今日って、本当に必要最低限のものしか持ち出してきていないから、流石に色々調達が必要だと思うのよね」
 「そのことは俺も話そうと思っていた」ケイゼスは口の中の肉を飲み下すと、「明日の朝のうちに俺がすぐそこの村まで調達に行ってくる。フェリカ、お前は念のため、出発の準備をしながらここで待っていてくれ。俺一人ならともかく、第一王女らしき人物が現れたとなれば騒ぎになりかねない」
 「わかったわ」
 夕飯と翌日の確認を終えると、天幕で二人は身を寄せ合うように毛布に包まった。背中越しに感じる彼女の温もりと鼓動に何も考えないようにしつつ、ケイゼスはきつく目を閉じる。鼻腔を冷たい土の匂いが擽る。静寂の中、夜風に揺れる木々の葉がさわさわと音を立てていた。フェリカが、ねえ、と傍らのケイゼスの方へ寝返りを打ちながら、
 「今のこの状況ってさ」
 その言葉にケイゼスは一瞬たじろぐ。しかし、彼女は何かをひどく懐かしむかのような切なげな表情を浮かべ、
 「昔、ケイの――クレイル領の別荘に連れて行ってもらったときみたいね。こんなふうに庭に天幕張って、三人で外で寝て」
 「父上と母上にしこたま怒られたけどな。姫様にこんなことさせちゃいけません、ってな。言い出しっぺがその当の姫様だったっていうのに理不尽な話だよな。だけど、フェリカも父上から連絡が行って、陛下に怒られただろ?」
 懐かしい過去の話に彼は苦笑する。こんな思いを持ち続けるくらいなら、いっそあのころに戻れればいいのに、と彼は思わないでもない。
 「でも、そんなことどうでもよくなっちゃうくらい、楽しかったよね。ちゃんとあのときはティゼルもいて」
 「そうだな。……って、フェリカ?」
 いつの間にか、直前まで会話を交わしていたフェリカがすうすうと寝息を立てて眠っている。本当に色々なことがあった激動の一日だった。いくらお姫様にしてはタフ過ぎるほどタフな彼女でも流石に疲れたのだろう。ケイゼスは彼女の身体にずれた毛布をそっと掛け直してやる。解いた柔らかな錦糸の髪の掛かるその寝顔は天使のように無垢で美しかった。
 (フェリカは――あいつの、ティゼルのことしか見ていない)
 今の彼女を突き動かしているのは彼の存在だ。フェリカとケイゼスは決して単なる主従に甘んじるような関係ではないが、それでも、これほどに傍にいて、一人の男という存在として見られていないことは彼の心を抉る。彼女からすれば、幼馴染の親友で、なおかつ年の近い兄のようなものでしかないのだろう。ティゼルと出会うよりも更に前から彼女と共に時間を過ごしてきたという自負もある。それなのに、彼女が無意識に追いかけているのはティゼルなのだ。
 (本当に――人の気も知らないで)
 ケイゼスは彼女が起きる気配がないことを確認し、その頬にそっと指を走らせる。すうすうと相変わらず寝息を漏らし続ける、形の良い桜色の唇に、彼はそっと自分のそれを重ねた。触れている刹那がどうしようもなく愛おしくて、切なく、胸が苦しかった。
 「好きだ、フェリカ。ずっと、昔から」
 そう呟くと、彼は寝返りを打って、彼女へと背を向けた。喉の奥に熱いものが込み上げてくる。
 夜が明けたら、また自分はきちんと彼女の騎士に戻っていなければいけない。彼は少し埃っぽい匂いのする毛布に顔まで潜り込むと、きつく目を閉じた。
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