Promise

モドル | ススム | モクジ

  後編*祈る未来は決意の先に  

 フェリカとケイゼスが帝都を訪れてから、二度目の夜が来た。街は静寂に包まれていた。夜に商売をする店がないわけではないはずなのに、辺りに人の気配はなく、この季節にはそぐわない冷たく重たい空気が降りていた。
 夕方のうちに美味しくはない、固くて味気がないばかりのぼそぼそとした食感のカロリー摂取だけが目的の携帯食料で二人は食事を済ませ、この場所にいた痕跡を消した後、ヨフィンの来訪を待っていた。
 ケイゼスは辺りを警戒し、いつでもすぐに剣を抜けるように、柄に手を掛けている。フェリカは外套に身を包み、その横顔を黙って眺めていた。
 しばらくの後、薄暗い簡素な部屋の床にぼうっと暗い赤の光を放つ魔法陣が浮かび上がった。遂に来た、とフェリカは唇を噛みしめる。もうこれで完全に後には引けなくなった、と感じた。王女としての責任や国際問題などといったことが一瞬、脳裏を掠めていったが、もう、行くしかない。フェリカの思考を感じたのか、ケイゼスが軽く頷く。
 魔法陣の上に漆黒のローブに身を包んだ小柄な魔導師の少年の影が浮かび上がった。はじめは幻のようにぼんやりと空中に像を結んでいたが、次第に鮮明なものへと移り変わっていき、昨日の銀縁の眼鏡を掛けた茶色い髪の少年がその姿を現した。
 「ヨフィン」フェリカはその少年の名を呼ぶ。「よかったわ、来てくれて」
 ケイゼスは黙って彼へと軽く会釈を送る。外套の内ポケットを弄っていたかと思うと、すっと一通の封書を取り出した。クレイル家の家紋を象った封蝋で封をされたそれをケイゼスは素っ気なさを装いながら、ヨフィンへと差し出し、
 「最悪の事態が起きたときは、これをうちの国境警備隊に見せろ。クレイル家の名の下に身の安全と今後の衣食住は保証されるはずだ。……あと、昨日は悪かった」
 「い、いえ、とんでもないです……。その……ありがとうございます……」
 「ケイ、あなたって人は……」フェリカはケイゼスの意図を察して苦笑する。「昨夜、何か書いていると思っていたらそういうことだったのね。てっきり、うちの国に送る報告書か何かの類かと思ってたわ」
 「最悪の事態――俺もフェリカもどうしようもなくなったときに、ロウェイスでヨフィンを保護し、うちの領地で暮らせるように取り計らってくれっていう手紙だ。俺の名前を出しておけば、ある程度の無茶は通るはずだしな。危険を冒して、俺たちに協力してくれるヨフィンを何かあったときに放り出すのは、守るって言った以上、無責任だろ」
 「ケイゼスさん、ありがとうございます……!」
 ヨフィンは感激して礼を述べながら、ぺこぺこと頭を下げる。ケイゼスはふんと鼻を鳴らすと、ばつが悪そうに顔を背ける。その様子にフェリカはやれやれといったふうに、
 「ヨフィン、ごめんなさいね。ケイってば素直じゃなくて。でも、こうなった以上、わたしもケイもあなたのことをちゃんと守りたいって思っているのは本当よ。だから、今夜、あなたがこうしてここに来てくれたことに感謝しているの」
 主とはいえ、年下であるフェリカにそこはかとなく保護者面をされ、ケイゼスは顔を顰める。いつもと何となく立場が逆転している。ヨフィンはそれには気づかず、とんでもないです、と頭を振った。
 「そもそも、この件はセレイド側が発端ですから……なので、そんな、感謝だなんて……」
 「それについては、あなた一人が背負うことではないし、今は置いておきましょう。あなたにはあなたの事情があるでしょうけれど、わたしたちだって、あなたをわたしたちの事情に巻き込んだのは紛れもない事実だもの。それを言い出したらきりがないわ。ともかく、そろそろここを離れましょうか。あなたのことは信用しているけれど、今こうして接触している以上、いつここを嗅ぎ付けられるかわかったものじゃないわ。用心するに越したことはないもの」
 「そう……ですね。わかりました。城への転移を行ないますので、どうかこちらへ」
 ヨフィンは何もない空間から使い込まれた古い杖を取り出し、その先端で魔法陣を構築する予定の場所を指し示してみせる。フェリカとケイゼスがその場所へと移動すると、ヨフィンは杖で床に赤く光る魔法陣を描き始める。彼は、複雑な紋様の組み合わさったそれを完成させると、
 「それじゃあ、十秒後に転移を開始します。もしかしたら、人によっては眩暈が起きたりすることがあるかもしれませんけど、すぐに治ると思うので大丈夫ですよ」
 ヨフィンは古い言葉で十をカウントすると、杖で魔法陣の中心を叩いた。魔法陣から迸る光に三人の身体は呑み込まれ、きらめきの残滓と共に忽然と姿を消した。

 揺れた。これが十九年間の人生で初めて空間転移の術を体験したケイゼスの感想だった。全身を思い切り揺さぶられ、何だか前頭葉の辺りがぐるぐるする。彼は真っ青な顔でその場にへたり込む。網膜に映る、彼を覗き込む彼女の可憐な顔が回転している。彼は込み上げる吐き気を懸命に堪えながら、辛うじて彼女を気遣う言葉を絞り出す。
 「フェリカは……大丈夫だったか……?」
 「わたしは平気よ。ケイは……大丈夫じゃなさそうね」
 「う……本当面目ねえな……」
 大丈夫ですか、と申し訳なさそうに眉尻を下げ、ヨフィンがローブのポケットから取り出したペパーミントの葉をケイゼスへと手渡した。彼は、弱々しい声でサンキュ、と感謝を告げると、薬草を受け取り、口に入れる。フェリカはそれを見守りながら、
 「ケイったら、まだそれ治ってなかったのね。昔から三半規管が本当に弱くて、子供のころ、乗馬訓練始めたころなんて、毎回酔って……」
 けろりとした顔で彼女が叩きかけた軽口を遮ったのは、ばんという扉が開け放たれる音だった。薄暗い図書室の中、書物がびっしりと余すところなく詰め込まれ、整然と立ち並ぶ書棚の間を鎧の金属音を響かせながら、こちらへと足音が近づいてくる。
 「どこだ!ここにいるのはわかっているぞ!ロウェイスの鼠どもめ!」
 低い男の声が響く。ヨフィンは蒼白な顔で唇を戦慄かせ、眼鏡の奥の茶色の双眸は信じられないといったふうに大きく見開かれている。
 「そんな……なん、で……。ぼ、僕じゃ……ない……信、じて……!」
 「大丈夫。わかっているわ。そんなことより、今はここを切り抜けることを最優先に考えないと」フェリカは震えるヨフィンの肩に触れると、毅然とそう言葉を返す。彼は予想の範疇とは言えどもこの事態に気が動転していて、この戦闘における支援は期待できそうにない。一方のケイゼスもまた、ヨフィンとは別の理由で青い顔をしながら口の中でフレッシュな後味の葉を惰性的に噛んでいて、今はまだ動くのは難しそうだった。ならば、と覚悟を決めて彼女は、にっと勝ち気な笑みを口元に浮かべ、外套の下に吊るしたレイピアの柄へと手をやる。「二人ともここにいて。ここはわたしがどうにかするわ」
 「どうにかって……お前……」
 「ケイ。あなたはそんな様子じゃ戦えないでしょう?これは命令よ。ここにいなさい」
 フェリカは反論しかけたケイゼスを押し留め、レイピアを抜き放つと音もなく、疾く風のように軽やかに書棚の影から飛び出していく。外套のフードが外れ、結い上げた錦糸の髪が揺れる。相手が息を呑む音がした。
 「……っ!?女!?魔導師の小僧はどこだ、あの裏切り者は!」
 「魔導師?そんなの知らないわ。ここにはわたくししかいなくってよ」
 狼狽する兵士に向かって、挑発するかのようにフェリカは不敵な笑みを浮かべる。続々と彼女の周囲に兵が集まってきていた。十人ほどはいるだろうか。
 
 「意地を張るなら仕方がない。少々痛い目を見てもらおうか。色々と聞きたいこともあるしな。後でその身体にじっくりと聞かせてもらおうか。やれ!」
 「セレイドの人って随分と品がないのね。――来なさい!」
 隊長格と思しき一人だけ質の良い装備を身につけた男が指示を出すと、兵たちは抜剣し、切りかかってくる。彼女は浴びせられる好色な視線を受け流し、斬撃を見切って飛び退って避けると、身体を反転させ、勢いをつけてレイピアで鋭い刺突を繰り出す。金属同士がぶつかり合うキーンという高音が響く。相手の攻撃を受け流し、フェリカは素早く流れるような動作で相手の懐に入り込んだ。次の瞬間、彼女の華奢な膝が相手の鳩尾にめり込み、「ぐえっ」どさっという音とともに床に崩れ落ちる。外套の裾が遅れてばさっと翻る。これで一人。
 「あ、アレイン!」仲間が倒されたことに狼狽したようにその名を呼びながら、近くにいた兵士が背後を振り返る。フェリカはその隙を見逃さず、その首筋へと容赦なくレイピアの柄を叩き込む。重たい音を立てて、二人目の兵士が昏倒した。およそ姫君とは思い難いフェリカの予想外に手段を選ばず容赦のない鮮やかな手並みに残りの兵士たちがざわざわと浮き足立つ。今や、彼らの双眸からは彼女を侮るような色は消えていた。二人倒したとはいえ、フェリカの数的不利は変わらないものの、彼女は不敵な笑みを浮かべる。
 (さて、どうしたものかしらね。わたしとしては、こっちを侮ったままでいてくれたほうがやりやすかったんだけど)
 多勢に無勢。彼女に策なんてなかった。それでも、どうにか突破口を作らねばならない。色んなものをかなぐり捨て、こんなところまで来てしまった以上、ここで足止めされるわけにはいかなかった。どうしたものかとフェリカが考えあぐねていると、少年の必死な声が響いた。
 「よ、避けてくださいっ!」
 「ヨフィン!」
 フェリカは反射的に飛び退る。刹那、白く眩い輝きを放つ幾多もの光の矢が降り注いだ。
 「逃げるわよ!」
 フェリカはケイゼスとヨフィンの元へと駆け戻る。ケイゼスが具合とばつの悪そうな顔で、
 「フェリカ。悪い。俺は……」
 「言いたいことがあるなら後にして。立てる?走るわよ」
 フェリカはきっぱりとそう言い放つと、有無を言わさず、まだふらつき気味のケイゼスの手を引っ張って立ち上がらせる。
 「こっちです!」
 ヨフィンの先導する声に従って、彼らは駆け出した。兵士たちの怒声が背中を叩いたが、彼らはその脇を駆け抜け、図書室を後にした。

 すっと、空気を切り裂きながら、ナイフがフェリカの耳から数センチ離れたところを飛んでいった。彼女のすぐ後ろに続くケイゼスがサーベルでそれを床へと叩き落とす。
 西の塔にある図書室をフェリカの立ち回りとヨフィンが展開した目眩ましの術式によってどうにか脱出した三人は、大回廊で待ち伏せしていた兵士の奇襲を受けていた。フェリカとケイゼスがそれぞれ得物を構え直したとき、がしゃりがしゃりという金属音とともに鎧を身に纏った兵士が大挙して押し寄せてきた。敵の増援のようだった。人数にして一個小隊ほどはいるだろうか。
 「げっ……くっそ」
 ケイゼスは悪態とともに舌打ちをする。このままでは図書室で遭遇した兵士たちにもいずれは追いつかれ、挟み撃ちにされてしまう。絶体絶命の状態だった。
 このままティゼルが監禁されている北の塔に向かいたいのが心情だったが、今の状況はあまりにも分が悪すぎた。一度、体勢を立て直すために安全な場所まで退くしかなかった。少し先に階下へと続く大階段がある。一先ずはそれを使って階下へと逃げ、城内に詳しいヨフィンに安全な場所まで誘導してもらうほかなかった。
 「ケイ……まだやれるわね?わたしが囮になるから、あなたは一人ひとり着実に仕留めなさい。ヨフィンはせめて自衛くらいはしてちょうだい。前言を翻すようで嫌だけれど、わたしたちもそこまでの余裕はないわ」
 敵へと向き合ったまま、フェリカは毅然とした口調で有無を言わさずそう口にする。おの連戦で、彼女の頬は上気し、少し息が荒くなってきていた。
 「フェリカ、それは」
 危険だ、とケイゼスは彼女を制そうとする。一番身軽で敵を翻弄するにはうってつけの彼女が囮となって動き回るのが合理的であることは頭ではわかってはいても、彼としては彼女が最も危険な役回りを進んで引き受けようとするのを黙って受け入れられるはずもなかった。しかし、彼女はそれを遮り、畳み掛ける。
 「ケイ、これは命令よ。いいわね?」
 「……御意に」
 渋々ケイゼスが頷くと、フェリカの質の良い牛革のブーツに包まれた足が大理石の床を蹴る。不敵な表情を浮かべるその瞳は爛々と輝いている。彼女を迎撃するべく振り下ろされたクレイモアの威力はあっても大味な斬撃を軽やかな危なげない足取りで彼女は躱す。そして、そのまま彼女が放った刺突に見せかけたフェイントに相手の体勢が崩れ、ケイゼスはすかさず斬り捨てた。しかし、その間に二人の敵兵がケイゼスへと斬りかかってきていた。一人は受け流したが、もう一人は真っ向から斬撃を受け止める羽目になり、その重さでじわじわと後退させられる。このままでは剣が折れる、と思い、ケイゼスは相手から間合いを取って、剣を構え直した。そのとき、前方で重装備が仇に出た三人の兵士を相手取りながら、軽い身のこなしで翻弄していたフェリカが斬撃を躱し損ね、バランスを崩した。外套の左肩の部分がすっぱりと裂けている。彼女へと凶刃が迫る。
 「フェリカ!」
 そのとき、ケイゼスの頭上をひゅんという空を切る音とともに数本のナイフが飛んでいった。ナイフは一種の曲芸か何かのようにすべてが敵兵の鎧の継ぎ目に突き刺さり、一瞬のうちに五人を昏倒させていた。予想外の奇襲に敵が浮き足立つ。
 ケイゼスはこんな神業のような離れ業をやってのける人物に心当たりがあった。そういえば騎士団の人事についての資料で、”彼女”の担当地域について目にしたことがあったような気もする。
 再び、ケイゼスの頭上を何かが飛来した。ケイゼスは半ば直感的に叫ぶ。
 「フェリカ、退がれ!」
 フェリカがいつもよりほんの少し鈍い動作で後ろに飛び退るのと同時に、何かが爆発する音が響いた。視界の先に煙が広がる。煙の中では敵兵たちが咳込み、呻いている。催涙弾だ。
 「今だ、行くぞ!二人とも、目を瞑って、鼻と口を覆って走れ!」
 フェリカを先頭に、ヨフィン、ケイゼスと続く形で、三人は呻く敵兵の間をすり抜け、階下へと続く大階段を駆け下りていく。
 ケイゼスは煙の中を走り抜ける途中、すれ違いざまに耳元で聞き覚えのある若い女の声を聞いた。それは彼が予想していた通りの旧知の人物のものだった。
 「二階のリネン室の鍵を開けておいた。そこなら一息つけるし、床下の通路を伝っていけば、じきに城の外に出られる。……まったく、事情は上から聞いてるけど、ちゃんと仕事しなよね、副団長さん」
 まあこうやって堂々と接触している時点で私も命令違反なんだけど、と苦笑交じりに”彼女”は少し低めの落ち着いた声音でそう呟いた。
 「恩に着る……ユーリス」
 ケイゼスは、くぐもった声でそう”彼女”に礼を述べると、前を行くフェリカとヨフィンの背を追いかけた。

 それから程なくして、三人はリネン室に身を潜めていた。あれから他の兵士と行き会うことなく、ここに辿り着けたのは不幸中の幸いだったと言ってもいい。近くに人気はなく、少しの間であれば、この場所で休息を取ることができそうだった。
 出鼻を挫かれた以上、ここで作戦を練り直してから出直すしかなかった。清潔なタオルやシーツの詰まった棚に囲まれた空間でフェリカは壁に背を預け、膝を抱えながら、
 「ところで、ケイ。どうして、この場所が安全だって分かったの?」
 「あー……その話は俺たちが無事にロウェイスに帰ってからでいいか?」
 フェリカの尤も過ぎるくらい尤もな疑問にケイゼスは言葉を濁す。どこの国も当たり前のようにやっていることではあるとはいえど、この国に派遣した密偵からの情報であったなどということは、今は味方ではあるとはいえ、いくら何でも敵国の人間の前で言えるわけがない。フェリカは何かを察したように、そんなことはどうでもいいんだけど、とさり気なさを装って話題を変える。
 「ねえ、シーツの一枚くらい失敬したってバレやしないわよね?」
 「一国の姫君が失敬とか言うな、口の悪い。で、何に使うつもりだ?」
 「ほら、さっき掠ったところ、一応止血くらいはしておこうかと思って」
 そう言って彼女は手の届く範囲にあったシーツを適当に引っ張り出し、ナイフで縦に細く裂く。彼女は外套を脱ぎ、服の袖を捲くり上げる。露わになった華奢な左肩はざっくりとした傷が走り、紫色に腫れ上がっていた。
 「フェリカ、お前、これ、毒……!」
 ぎょっとして彼女の傷口に口をつけて毒を吸い出そうとしたケイゼスを制して、ヨフィンが抱えたままだった杖の先で魔法陣を描く。淡く優しい緑色の光を放つ魔法陣を手で示し、
 「フェリカ様はこちらへ。これで解毒できるはずなので、少し楽になるかと思います」
 「ありがとう。助かるわ」
 礼を述べて、魔法陣の中に入ったフェリカの傷口に光が纏わりついた。腫れがみるみる引き、傷口が塞がっていく。しばらくの後には、元の通り、白い陶器の肌へと戻っていた。
 「おかげでだいぶ楽になったわ。作戦を練り直し次第、もういつでも動けるわ」
 「お前な……今はもうちょっと休んでろ。あー……何だ、俺もまあ、ちょっと疲れたしな」
 ケイゼスはそうでも言わないとフェリカが休みたがらないのを見越して、自分の疲労を理由にそう主張したが、「何よ、ケイってば、ほんと過保護なんだから」フェリカは口を尖らせてぷりぷりとそう言い返しつつも大人しくなった。
 「さて、これからどうするか。ここから再度北の塔に向かうには、また大回廊に戻らざるを得なくなるから厳しいよな。さっきの件で、確実に警備も厳しくなっているはずだ」
 そう切り出したケイゼスに、ヨフィンは頷き、肯定の意を示す。
 「そうですね。かと言って、先に皇帝陛下の元に向かおうにも、この状況では厨房や食糧庫にも兵を配置しているかもしれません」
 「食糧庫以外に皇帝の部屋に続いているところってないの?排水溝みたいに狭いところなら、兵も配置しにくいだろうし、そもそも用途を考えればその存在を知っている人間のほうが少ないはずでしょう?」
 「なあ……ところで、ここの床下とか天井裏ってどうなってるんだ?例えば、どこかで排水溝に繋がってたりするような都合の良いことはないよな?」
 先刻の”彼女”との会話を脳裏に思い浮かべてケイゼスはそう口にしながら、何の気なしに触れた場所の床板がずるっと動いた。ぽっかりと口を開けた暗闇に耳を澄ませると、遠くでごうごうと水が流れる微かな音を聴覚が捕らえた。
 「……都合が良すぎる気はするけど、当たりみたいね、ケイ」
 「……ああ」
 ケイゼスは家紋の入った左手の袖口の金のカフスボタンを取ると、暗闇の中へと落とした。すぐにかつんという音が響き、下が然程深くないことがわかる。
 「降りられそうね。正面から皇帝の元へ向かうよりはマシだろうし、行きましょう」
 フェリカは外套を羽織り直すと、足元の暗闇へとその身を投じた。
 
 リネン室から床下へ降り、しばらく進んだ三人は期待通り、排水溝へと辿り着いていた。階上の生活排水がすべて垂れ流しにされているこの場所は狭く、人一人が通るのがやっとの幅である。腐臭の漂う汚水に流されないように手をついて支えようにも、壁は緑色の黴だらけでぬめぬめとしている。
 「くっさ……」
 数代前に降嫁した王族の血を継くほどの結構な家柄の子息であるケイゼスは思わず顔を顰めた。こんなところを進むくらいなら、正面突破のほうが精神衛生上は些かマシだったかもしれないと彼は若干の後悔を覚える。彼より更に高い身分にあるはずのフェリカは平然とした顔で、まあどこの城も排水溝なんてこんなものよねなどと宣っていた。
 「……入ったことあるのかよ」
 「ほら、昔、よくケイとティゼルと三人で隠れんぼとかして遊んだでしょう?」
 「……」
 幼いころ、隠れんぼをすると、何故かフェリカだけいつまで経っても見つからず、父親に泣きつき、近衛騎士団を総動員して探し回る羽目になったことは一度や二度ではなかった気がするが、それが真相だったのかとケイゼスは非常に遅まきながら納得する。今でも然程変わらないが、幼馴染三人の中で、一番活発でやんちゃだった彼女であればいかにもやりそうな話である。
 「ほら、そんなことより早く行くわよ。何なの、汚れるとかそんなつまんないこと気にしてるの?これだから貴族のお坊ちゃんはもう」
 「……いや、お姫様に言われたくないんだけど。お前は王族で女なんだからそういうのもっと頓着しろよ……」
 ぶつぶつ言いながら、ケイゼスはフェリカに促されて、渋々ながら茶色く濁った水流へと足を踏み入れた。足元のぐにょっとした感触が気持ち悪かったが、それを口に出すのは、またフェリカに馬鹿にされそうなので控えておいた。
 「ヨフィン、ここから先の道案内を頼めるか?」
 「ええ、大丈夫です。非常時に備えて、訓練の一環で何回か通ったことがありますから」
 三人は、ヨフィンを先頭にフェリカ、ケイゼスの順で悪臭の漂う濁流の中を進み始めた。

 ただただ臭くて汚いというだけでも気力を持っていかれるというのに、水の中を進むことで体力をも消耗してきていた。その代わり、不気味なくらい、城内の兵士に遭遇することもなかった。尤も、知らない人間が大多数であるはずの場所ではあるが、仮に知っていたとしても、国を揺るがすほどの緊急事態でもない限り、普通の神経を持ち合わせた人間であれば、好き好んで通りたい場所ではない。
 くしゅん、と場に不似合いな可愛らしいくしゃみの音が聞こえた。フェリカだ。王女でありながらもいろいろと常人離れした彼女も長時間水に濡れ続け、体が冷えてきてしまったようである。ケイゼスは反射的に外套を脱いで彼女のその華奢な背に掛けてやろうとしたが手で制される。
 「兵器よ。気持ちは嬉しいけれど、そうしたらケイが寒いし、何より冷えてるの足元だし」
 流石にズボンも靴も様々な理由により譲ってあげられそうにはなかった。フェリカはさして気にしたふうもなく、ぱしゃぱしゃと茶色い飛沫と軽い水音を立てながら、先を行くヨフィンの背を小走りに追いかける。
 さて、とヨフィンがこちらを振り返った。行き止まりである。彼の顔は暗がりでもわかるほどに蒼白で、悲壮感が漂っていた。微かにその身体が震えているのは、決して寒さのためではないだろう。
 「……着いたんだな」
 「はい……」
 彼は頷いた。彼の様子にフェリカは気遣わしげに、
 「ヨフィン、大丈夫?あなたは戻ってここから先はわたしとケイだけで行ってもいいのよ?誰かに何か言われたら、わたしたちに脅されて案内させられたって言えば……」
 「いえ……大丈夫です。それに、皇帝陛下は、いかなる理由があろうと裏切り者を許すことはありませんから……。この先、何か一つでも失敗することがあれば、僕に待ち受けているのは死のみですから……」
 「……そうか」
 ヨフィンは突き当たりの苔と黴と汚物にまみれた壁に震える指先を走らせる。すると、壁にぼんやりと光る文字の羅列を浮かび上がり、フェリカは息を呑んだ。
 「これは……?」
 「昔の宮廷魔導師が作った外敵の侵入を防ぐための仕組みです。ところで、フェリカ様、ナイフをお借りしても……」
 「いいけど、何をするの?」
 「僕の血がほんの少し必要なだけです。この仕掛けは皇家か宮廷魔導師の一族の者の血液で正しい答えを記述したときにのみ解除されるようになっているんです」
 「へえ、すごいのね」
 うちの城にも欲しいわ、と言いながらフェリカはヨフィンにナイフを渡してやる。ヨフィンはナイフで指先の皮を薄く裂いて、血を滲ませると、彼女へとナイフを返した。ヨフィンが指先で何事か記述すると、壁の一部の材質が変化する。
 「この先は皇帝陛下の寝室に繋がっています。これを横にずらせば出られますよ」
 ヨフィンが手で示したつやつやと金色に光る巨大な金属板をフェリカは指先でつんつんと突きながら、
 「因みにこれは何なの?」
 「皇帝陛下の姿見ですね」
 「……」
 オッサンのくせに随分と金ピカで趣味の悪そうな鏡だなと思いながら、ケイゼスはごてごてとした仰々しい装飾の施された鏡の縁を掴み、指先に力を込める。刹那、鏡があったその空間に剣が突き入れられた。フェリカはケイゼスを突き飛ばすと、抜き放ったレイピアでそれを受け止めた。ケイゼスは濁った冷たい汚水の中へと尻餅をつく。フェリカが騎士道精神も何もあったものではなく、相手の鳩尾に蹴りを入れ、乱暴に寝室側へと突き倒す。ケイゼスも起き上がりざま、サーベルを抜くと、姿見があった場所からフェリカとヨフィンを伴って寝室内へと突入する。
 三人が飛び込んだ先は、重々しい鎧に身を包んだ兵士たちの包囲網の中だった。質の高い装備に所属を誇示するかのような装飾が施されている。彼らは皇帝の近衛兵だった。
 さっと近衛兵たちが左右に別れ、恭しく跪いたかと思うと、初老の男が姿を現した。現セレイド皇帝その人だった。
 「ゼーウィン・メイティア……」
 フェリカが低い声で呟く。しかし、彼はじろりと冷たい一瞥をくれると、ふんと鼻を鳴らし、ヨフィンへと向き直る。
 「ヨフィン、どうしてロウェイスのドブネズミ共がこんなところにいる。返答次第ではお前自身もどうなるか、わかっておろうな?」
 「そ、それは……」怯えたようにヨフィンが口籠る。眼鏡の奥のヘーゼルナッツの双眸には恐怖の色が揺れている。しかし、彼は上ずった声を震わせながらも、毅然として言葉を紡ぐ。そこには、静かだけれど、確かな闘志の光が宿っていた。
 「皇帝陛下。畏れながらも申し上げます。この国を守護する魔導師の一族の最後の一人として、陛下のやりようをこれ以上見過ごしておくことはできません」
 「だから何だというのだ、この汚らわしい売女の子よ。これまでの恩を仇で返すつもりとは言うまいな?」
 「違う!母さんは売女なんかじゃない!母さんは”あの方”と好き合っていた、ただそれだけだ!それに貴方は、ただ皇家の名に疵がつくのを恐れて、母さんや僕を脅して、都合のいい手駒として利用していただけだろう!」
 冷ややかな氷のような態度を崩さない皇帝に対し、ヨフィンは感情を決壊させる。荒げた言葉とともに、熱い情動の雫が溢れ出していく。
 ケイゼスは昨日の己の推測が正しかったことを悟った。ヨフィンはティゼルの腹違いの弟だ。
 「脅すなどとは人聞きの悪い。あの売女のしたことを思えば極刑に処しても足りないくらいだというのに、貴様ら親子に情けをかけ、重用してやってだけだろう。時には仕方なく、少々汚れた仕事をしてもらうこともあったがな。そう、たとえば愛した男とその家族の殺害や、敵国の官僚の誘拐などをな」
 「……これ以上、ヨフィンの手を汚させることは許さない。彼の事情はすべて承知しているわ。皇家とマルティス家の悪しき因縁はここで断ち切ってあげる。覚悟なさい」
 フェリカはヨフィンを背に庇うように前に出るとゼーウィンへとそう言い放った。その凛々しい姿からは、薄汚れてはいても高潔さは失われていなかった。しかし、ゼーウィンは不快げに顔を歪めると、嘲るような口調で、
 「おや、何を言い出すかといえば、これはロウェイスの姫君ではないか。あまりにもドブ臭いせいで気づかずに失礼した。しかし、ロウェイスの姫君よ、ヨフィン・マルティスは我が臣下、これ以上の口出しは内政干渉として受け取らせていただこう。黙って姫君らしく花でも愛でていれば良いものを、まったくロウェイス人というものは程度が低くてどうしようもない」
 「ティゼル・アルフォーンの拉致に、王女殿下への侮辱――ロウェイスは充分過ぎるほど当事者だ。これ以上は看過できない」
 「したがって、わたくし、ロウェイス王国第一王女フェリカ・シェーゼルは、国王ノウェイン・シェーゼルの名代としてティゼル・アルフォーンおよびヨフィン・マルティスの解放ならびに貴殿の退位をセレイド帝国側へ要求するわ。……ヨフィン、それでいいわね?」
 「ふん。小娘が何を勘違いしている。そのような要求、呑むわけがないだろう。おい、小奴らを捕らえよ!ヨフィンについては殺しても構わん、用済みだ」
 がしゃりという金属音とともに、近衛兵たちがそれぞれの得物を構え直す。踏み込まれる前に間合いに飛び込もうとしたフェリカと敵兵の間にゆらゆらと燃え上がる炎の壁が立ち塞がった。フェリカは指先で目元を拭う魔導師の少年を振り返る。
 「ヨフィン?」
 「これは幻影です。どうにか無力化できないか、やってみようと思うので、お二人はその間、時間を稼いでいただけませんか?」
 「いいわ、任せて」フェリカは彼の提案に片目を閉じて二つ返事で承諾してみせる。「さ、ケイ。行くわよ。相手が怯んでるうちに、ね!」
 フェリカはそう言うと、レイピアを構え、幻の炎の中へと突っ込んでいった。ケイゼスはやれやれと肩を竦める。大人しく花を愛でていろとは言わないが、こういった局面でまるで水を得た魚のように活き活きとするのは、我が主ながら、姫君としてどうなのだろう。ケイゼスは、フェリカに続いて立ちはだかる炎の壁へと飛び込んでいく。幻の炎が彼の身体を包み込むが、当然のようにそこから温度を感じることはなかった。ゆらめく赤色の向こう側でフェリカが、突然現れた彼女にたじろぐ敵に鋭い突きを放ちざま、他方から来ていた敵を外套の懐に潜ませていた短剣で牽制している。そのまま、流れるような動きで回し蹴りを放つ彼女へと「フェリカ、避けろ!」ケイゼスは叫ぶと、握りしめた得物を大上段に構え、敵へと向かって振り下ろす。手応えとともに血の臭いが鼻腔を刺した。これでようやく一人だ。先程の回廊での戦闘に比べ、人数は少ないとはいえ、まだ十人近く残っている。威力のある大技を放つと同時に隙のできたケイゼスに迫る剣の切っ先を彼を庇って、身軽な猫のようなするりとした身のこなしで華奢な身体を滑りこませてきたフェリカの短剣が受け止め、器用に受け流す。その間にケイゼスは体勢を立て直し、血糊のついた剣を構え直した。視線の先で鈍く重い殺人的な打撃音が響く。フェリカが短剣の柄で敵兵のこめかみを強打した音だった。彼女の背を狙って、別の兵士が切り込もうとするが、こめかみを殴打されて気絶し、身体を傾がせていく男の肩を蹴って彼女は高く跳躍し、それを軽々と避けざまに、更に別な兵士の脳天へと回し蹴りをいれてのける。ケイゼスは彼女の軽く早い手段を選ばない強さに半ば呆れながらも内心で舌を巻きつつ、彼女を狙っていた兵士へと斬りかかる。
 まだ敵は残っている。フェリカとケイゼスが互いの隙を補いあう形で戦闘を続けているが、一人の相手をしている間に他の敵兵が襲いかかってくるので埒が明かない。人数は一個分隊程度でさして多くはないものの、皇帝の直属部隊というだけのことはあり、一人ひとりの練度が高く、フェリカとケイゼスの二人がかりでようやく倒すことができているような状況だ。図書室、大回廊と連戦し、冷たく汚い水の中を歩きまわった後で消耗もしている。口にも顔にも態度にも全く出さないが、ずっと先陣を切って主戦力として戦い続けているフェリカは特に顕著だろう。今は一度のミスが命取りにも国同士の大問題にもなりかねない。この戦いは長引けば長引くほど不利になっていくのは間違いなかった。
 後方ではヨフィンが何事か唱えながら、杖先で魔法陣を描いている。燐光のような青色のひどく大きく複雑に編み上げられたそれは部屋中を覆い尽くそうとしていた。
 「退がってください!」
 使い込まれた杖を携えてそう叫んだヨフィンに向かって、一人の兵士が短剣を投げたのが見えた。ケイゼスがその名を呼んで咄嗟に注意を促すが、術の発動のために集中しているのか、彼はその声には気づかない。間に合わない。歯噛みするケイゼスの横を翻る汚れた外套の裾と波打つ艶やかな金糸の髪が疾風の如く駆け抜けた。そして、それなりの重さを持ったものが床に叩きつけられるような音が響き、短剣が何かに刺さったと思しき音が続く。うっとフェリカが呻き、レイピアを床に取り落とした。その右脇腹には短剣が深々と刺さり、赤黒い染みを広げている。フェリカに突き飛ばされる形で庇われたヨフィンは少し離れた場所で身を起こしている。部屋中を覆っていた青白く発光する魔法陣はその発動を妨害されたからか消え失せていた。
 「フェリカ!!」
 上ずった声で彼女の名を呼ぶケイゼスへと敵の兵士が二人同時に斬りかかってくる。彼が動揺している今が好機と踏んで、畳み掛けようという腹積もりのようだった。受け流したつもりが避けきれずに右頬と左腕にかっと熱が走る。掠っただけで傷は深くはない。ケイゼスの視界の端でどうにか拾い上げたレイピアを杖代わりに短剣が脇腹に刺さった状態のまま、血溜まりの中でフェリカが立ち上がろうとしている。負けん気の強いアクアマリンの双眸にはまだ諦めない闘志の炎が爛々と輝いている。敵の重い斬撃を受け止めながら、堪らなくなってケイゼスは吠える。己の不甲斐なさに胸が締め上げ、込み上げてきた感情が眼窩の奥を熱くしたが、今は気づかないことにする。
 「フェリカ!お前はじっとしてろ!」
 「そんなこと、言ったって……っ!そんな、わけに……いかない、でしょっ……!大丈夫、こんなの……こんなの、掠り傷……」
 「お前に無理されて何かあったらお前だけの問題じゃ済まねえんだよ!何よりお前にもしものことがあったら、俺が困るし、俺が嫌なんだってことくらいいい加減言わなくても分かれよ!俺が……俺が、どれだけお前のことを大事に想っているか、そんなことくらいいい加減気付けよ!この馬鹿姫!脳筋女!!」
 ケイゼスは一国の王女相手とは思えない暴言を吐き散らしながら、敵へと斬撃を浴びせる。そのまま下段に構え直し、別の兵士の剣とどこか白けた視線を受け止めながら、
 「ヨフィン、悪いがフェリカのことを頼む。あとは俺に任せておけ」
 フェリカがもう戦えそうにない今、戦況は絶望的だった。背は腹に変えられないな、とケイゼスは唇を噛む。
 ケイゼスとて、近衛騎士団の副団長を務めているのは、伊達でもなければ、ただの親の七光りというわけでもない。彼の実力と立場を持ってこそ、まだできることがあった。この場を有利な形で切り抜けるための本当の最終手段――本来ならば使うつもりはなかった奥の手がまだ一つだけぼろぼろになった外套の懐に隠されていた。事態が事態とはいえ、帰国後に流石にお咎め無しというわけにはいかないが、この場を切り抜けた後の交渉の材料にはなりそうだった。仕方ない、と彼は冷たい金属製の”それ”を無造作に懐から取り出すと、唇の端に不敵な笑みを浮かべた。彼を囲む敵兵たちが顔を引き攣らせて動きを止める。
 「……あんまり部屋の中じゃ使いたくなかったんだけどなあ……これコントロール難しくてどこ飛んでくかわかったもんじゃねえからさ」
 これ高いし後で始末書ものだなとぼやきながら、彼は手の中のそれをかちゃかちゃといじくり回す。そして、彼は利き手とは逆の手で”それ”を構えると、
 「……銃……?しかし、あんな小型のものなど存在しないはずでは……?
 引き金を引かれると同時にパンという乾いた音とともに銃口から弾が飛び出していく。それは近くにいた兵士の左の耳朶を掠めて飛んでいき、悪趣味な動物の剥製の吊るされた壁へとめり込んだ。弾が掠めた程度であったはずにも関わらず、その兵士はどさりと昏倒し、周囲はどよめきに包まれる。
 「安心しろ。麻痺させただけで殺してはいない。そもそも急所は逸れてるしな」
 ケイゼスは空薬莢を床に捨て、シリンダーに次の銃弾を装填し、撃鉄を起こす。セレイド帝国で銃器といえば狩猟の際に使用する両手で扱う一抱えほどのサイズがあるものであり、決して、今、ケイゼスが手にしている片手でも扱えるものではない。セレイド帝国とは異なり、魔導師を抱えていないロウェイス王国では、中長距離の戦闘における軍事力の増強のために、銃器の分野を重点的に開発を進めていた。火力の高い銃器の分野を強化することにより、飛躍的に戦力を向上させ、歴史的に小競り合いの続く隣国を牽制させることで仮初の休戦状態による平和を少しでも長く維持したいという狙いがあった。まだ国内の研究機関で開発途上の代物であり、非常に高価なため、普及には程遠く、諜報活動などで身軽に動きまわる必要がある一部の人間を中心としたごく一部にしか支給はされていないものの、実際にこうしてセレイドの兵士たちをたじろがせることに成功している点で、方針として少なからず効果はあるようだった。
 腰の引けた兵士たちを相手に右手のサーベルで牽制しつつ、ケイゼスは近距離で引き金を引く。シリンダーに次の弾を装填し、同じことを繰り返す。視界の隅で優しい緑色の光が柔らかく揺らめいている。
 「ほら、今のうちに畳み掛けるわよ!」
 ヨフィンによる応急処置を受けたフェリカが少しふらつきながらも立ち上がり、レイピアに手をかけている。彼女は血液と汚水を吸って重たくなった汚れてぼろぼろの外套を邪魔とでも言わんばかりに脱ぎ捨てると、姫君らしからぬ不敵な笑みを口元に浮かべた。
 「フェリカ……!」彼女をほんの少し滲んだ視界に認め、ケイゼスは安堵と喉の奥に込み上げてきた熱いものを無理矢理飲み込む。しかし、いくら応急処置を受けたとはいえ、満足に戦えないであろうことを感じ、「……自衛とヨフィンの援護はお前に任せる。いいか?」
 「まったく、心配しなくても別にもう普通に戦えるわよ。何格好つけてるのよ、ケイのくせに」
 「うるせえよ、馬鹿姫が。こっちがどんだけ胃の痛い思いしたと思ってんだよ」
 「あら、それなら後でうちの王室御用達の胃薬分けてあげるわよ。この世の終わりみたいな苦さだけど」
 そんな軽口を叩きながら、二人が敵の兵士たちと剣の応酬を重ねている背後で、ヨフィンは再度、描いた魔法陣の上で杖を掲げ持ち、何事か唱えている。ケイゼスが来る、と本能的に感じた次の瞬間、背後で魔法陣が激しく青光りしたかと思うと、豪奢なシャンデリアの下がった天井から、氷の粒子がさらさらと降り注ぎ、足元から敵兵の自由を奪っていき、氷の彫像を作り上げた。
 「終わった、の?」「いや、まだだ」
 唐突に静寂の降りた皇帝の居室を見回しながら、呆けたように掠れた声で言うフェリカに、ケイゼスは部屋の隅を顎でしゃくってみせる。いつの間にか、ヨフィンに距離を詰められたゼーウィンが、先ほどまで冷笑を浮かべながら高みの見物を決め込んでいたその顔を引き攣らせている。幼さの残る魔導師の少年は目にも留まらぬ速度で、鮮やかな手並みで宙に魔法陣を紡いでいる。
 「……どういうつもりだ、ヨフィン・マルティス」
 「陛下。いえ、ゼーウィン・メイティア。これがあなたにとって不利な状況なのはおわかりでしょう。どうか、無駄な抵抗はなさらぬよう。少しでも動けば、その瞬間に雷が御身を貫きます。わざわざそんな最期を好き好んで迎えるほど、酔狂ではないでしょう?」
 「貴様、私を脅すつもりか?」
 落ち着いた声音で淡々と言葉を紡ぐヨフィンに対し、ゼーウィンは震える嗄れた声で問うた。先程までのそんざいな態度はどこへ行ってしまったのか、身を強張らせた彼の目と鼻の先で、術式が発動しかかった魔法陣が煌々と金色の光を激しく放っている。ヨフィンは室内の静寂を纏ったかのような目で相手を見据え、
 「脅しではなく忠告です。どうかこのまま投降してください。命まで取るような真似はしません。僕はあなたとは違いますから」
 「ならば……どうするつもりだ」
 「あなたの処遇に関しては考えさせていただくことになりますが、皇帝の座を退いていただくことは間違いないでしょう。僕はこの国を守る一族の末裔として、あなたがこれ以上、皇帝の座に居座り続けることを認められません。あなたがこんなふうに変えてしまったこの国が、良い方向へと変わっていくことを僕は望みます。そうしていくことが、あなたへと加担してしまった僕と、僕の一族の罪滅ぼしであり、責任です」 「餓鬼が……生意気な口をっ……!」
 刹那、部屋の中が轟音を伴って激しく明滅した。激昂し、ヨフィンへと掴みかかろうとしたゼーウィンの手が宙を泳ぎ、びくんとその身を痙攣させて崩折れた。兵士たちを氷漬けにした術式の痕跡がシャンデリアの光を浴びて、場違いにきらきらと光る紅のビロードの絨毯の上に倒れ伏すゼーウィンの身体には目立った外傷こそないものの、身動き一つしない。
 「おい……殺してないよな?」
 フェリカに寄り添って、傷だらけになって少しふらついている華奢な身体を支えてやりながら、ケイゼスは躊躇うように問うた。ヨフィンは、へなへなと力なく床に座り込み、気弱な笑みを浮かべる。
 「大丈夫です。気絶させただけですし、あの術式自体、発動に時間の掛からない威力の弱いものですから。それよりも、今のうちにゼーウィンと彼らの身柄を拘束し、皇帝の退位を臣民に向けて発表しなければなりません。けれど、これでティゼル殿下の身柄を解放できます。やらなければならないことが多くて、少しお時間をいただくことにはなってしまいますけれど、ようやく、お約束通り、お二人を殿下の元へとお連れすることができます」

 数日後、城の正式な賓客として宿泊していたフェリカとケイゼスはヨフィンに呼びだされた。二人はヨフィンに案内され、厳しく重厚な装飾を施された扉の向こう側へと招き入れられた。真鍮製のノッカーの獅子がこちらを見ていた。
 しばらく使われていなかったのか、多少の古さを感じるものの調えられた室内の黒い革張りのソファに、二人が探していたその少年がそこにいた。
 「――っ、ティゼルッ!!」
 フェリカは結い上げた金糸の髪と貸してもらったセレイド帝国風のロイヤルブルーのドレスの裾を翻し、彼へと抱きついた。彼女が見たことのない彼の現状に見合うだけの質の良いセレイド帝国風の衣服に身を包んでいたが、紛れもなくティゼルだった。幼いころからずっと一緒に過ごしてきた彼の髪を、目を、声を、表情を、その温もりを彼女が間違えるはずはなかった。
 「姫、様……?本当、に……?」
 されるがままになりながら、現実味がないのか、ティゼルは呆然と呟く。フェリカはその細腕にぎゅっと力を込め、髪が乱れるのも構わずに激しく頷く。感情が決壊したその声は湿り気を帯びていた。
 「ティゼル――本当に、無事でよかったわ。怪我したり、ひどいことされたり、していない……?」
 「姫様、私は大丈夫です。それより、ヨフィンから伺いましたが、私のために姫様は随分と数限りない無茶をされたそうですね?」
 「だって、当たり前じゃない!他でもないティゼルのことよ!わたしは、大事なの、あなたのことがっ……!」
 そこから先はもう、言葉にならなかった。フェリカは一国の姫であるにもかかわらず、ティゼルに縋るようにその胸に顔を埋めて、幼い子供のように泣きじゃくった。ティゼルは彼女を落ち着かせるように、そっとその柔らかく艶やかな髪を優しく撫でた。感情を爆発させた姉とそれを宥める弟のような関係性がただそこにあった。
 ケイゼスはごほんと咳払いをすると、ひどく感動的な場面であることだけは間違いないものの、状況についていけずに唖然とした顔をしているヨフィンに対して苦笑してみせる。ヨフィンとて、ある程度、フェリカがやりそうなことは予測してはいただろうが、ここまでだとは思ってもいなかっただろう。
 「俺たち三人は立場は違えど、兄弟同然に育ってきたからか、フェリカは少々ティゼルに対して過保護でさ。まあ、だいぶ度の過ぎたブラコンだとでも思ってくれればいい」
 「は、はあ……」
 呆けたような反応を返すヨフィンに、ケイゼスはまあ無理もないだろうと思う。自国の次の皇帝になるかもしれない人物が他国の王族にこうして抱きつかれ、大泣きされていたりしたら、いくら事情が事情であっても内心は複雑だろうし、感情が追いつかないのが普通だろう。ティゼルとヨフィンの関係性を考えれば尚更だ。
 「おーい、フェリカ、その辺にしとけ。ティゼルが困ってるだろ」ケイゼスは泣き腫らした目の主君を己にとっても弟同然の彼から引き剥がしながら、「ティゼル、無事でよかった。本当に」
 「ありがとう。ケイにも無茶なさせちゃってごめん」
 「気にすんな。フェリカが動かなくても、国に背いたって、どのみち俺が動いてた。俺はこいつが――フェリカが泣くのは嫌だから」
 申し訳なさそうにするティゼルにケイゼスは飄々と態度でそう言った。そう、とティゼルは静かに頷く。そんな二人の間に目の淵を赤く腫らしたままのフェリカが何二人だけで分かり合ってるのようと口を尖らせて割って入る。ほんの少しの間、離れていただけなのにそんなやり取りがひどく懐かしかった。
 「ところで」ティゼルが真顔になり、居住まいを正した。「姫様。ケイ。私からお二人に大切なお話があります」
 「……ええ」
 何となく、この後に続くであろう言葉を察し、フェリカは唇を噛む。
 「私はヨフィンから、自分の出生を知らされ、この国の皇族の血を継ぐ者であることを知りました。同時に、この国が現在置かれている状況についても知ることとなりました。前皇帝が更迭された今、この国に対する責任は私にあります。私にはこの国を正しい方向へ導いていく義務があるんです」
 そう告げた彼の黒の双眸には静かだけれど強く確かな意志が宿っており、その顔はもうフェリカやケイゼスの知る気弱でどことなく頼りなげな、守ってあげなければいけない少年のものではなかった。フェリカは一国の王族としての顔で彼へと問うた。
 「ティゼル――あなたは今のこの国で、皇帝の座に就くということの意味を理解している?確かにこの国の存続のためには、あなたは必要な存在かもしれない。けれど、前皇帝が更迭された今、あまりにこの国は情勢不安定に過ぎるわ。この国において、あなたは今、あまりに味方が少なすぎる。前皇帝派によって、それこそ生命を脅かされるようなことだってあるかもしれないし、国内が混乱しているこの期に乗じて、他国に攻め込まれる可能性だってあるわ。それでも、あなたはそれを受け入れ、この国の皇帝となる覚悟があるというの?」
 「はい。すべて覚悟の上です。姫様やケイと過ごした日々が私の中にある限り、私はどんなことをも受け入れ、乗り越えていけます。私はこうしてここまで私のことを迎えにきてくれた二人に恥じない生き方がしたい。だから、私は私のやるべきことに精一杯向き合っていくまでです。なので…姫様、ケイ。申し訳ありません。私は二人と一緒にロウェイスへは帰れません」
 「そう」フェリカは複雑そうな表情を浮かべつつも、凛とした王女としての態度を崩すことなく、「新セレイド皇帝ティゼル・メイティア。ろウェイス王国王ノウェイン・シェーゼルの名代として、第一王女フェリカ・シェーゼルは、両国の国境における休戦中の紛争の終戦協定の締結を条件に、今後のセレイド帝国への全面的な支援を約束するわ。これがわたしがあなたへ贈ることのできる唯一の餞別よ」
 「お心遣い、心から感謝します。姫様――いえ、フェリカ王女殿下」
 震える声でそう礼を述べ、膝を折って深々とティゼルは頭を下げた。滴り落ちた雫が絨毯にぽたぽたと染みを作った。
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