カケラ -close to you-

モドル | ススム | モクジ

  後編*繋ぎ止めゆく最後の鎖  

「ドゥーエ」彼女が血の気が失われた真っ青な唇で彼の名を呼んだ。足元はふらつき、顔も蒼白だったが、彼を見据える澄んだ黒の双眸は強い意志を秘めて、凛とした光を放っている。「ドゥーエ…これを食べて」
「な…何故…」
そう言った彼の声は震え、掠れていた。目の前の彼女の状態が示すものを信じたくなかった。しかし、それでも本能が欲するものには抗いきれず、彼女が残ったもう一方の手で差し出してきた、血で汚れたそれにごくりと喉が鳴った。
「何でって…」シュリの表情が泣きそうにぐしゃりと歪んだ。「あたしは…あたしは見たくない!」
彼女は涙混じりの声でそう叫ぶと、持っていた自身の左腕を床へと投げ捨てた。切断された腕に付着した乾きかけの血液が床を汚した。彼女はよろけるように彼に全体重を預けてきた。受け止めたその細く小さな身体は失血のために冷たく、今にも壊れてしまいそうに思えた。熱を失った身体はそれでも鼓動を確かに繰り返していて、彼女がここで生きていることを伝えていた。そのいじらしさがどうしようもなく愛おしくて、その華奢な背をまるで壊れ物を扱うかのようにそっと温めるようにゆっくりと掌で撫でる。彼の胸の中で彼女は尚も叫び続けた。
「あたしは、あんたがあたしに黙ってこそこそするのなんて見たくない!だけど、あんたがこの前みたいにこれ以上誰かを殺すのも見たくないし、あんたが飢えで苦しむのだって見たくない!何よりも…あたしは、あんたに…ドゥーエに死んで欲しくない!」
「シュリ…」ドゥーエは彼女の背を撫でる手を止める。彼の胸で彼女は声を上げ、泣きじゃくり始めた。彼女の双眸から溢れだした熱い滴が彼の服の胸元を濡らした。彼女にここまでさせてしまったのだ。ならば、自分も覚悟を決め、彼女に告げなければならない。「シュリ…俺は…」
「言わないで」涙で濡れた顔を上げ、乾いた血液で茶色く汚れた服の肩口で拭うと、鋭く彼の言葉を制した。泣き腫らして赤みを帯びた目が痛々しかった。「言わなくていい。あたし、全部わかってるから。ドゥーエが”人喰い”だってことも、あの日、あたしの両親を喰い殺したのがドゥーエだってことも」
「なら、何故…何故、俺を助けたりなんてした?何故、こんなにも近くにいて、お前は、俺を殺そうとしなかった?お前の両親を”喰った”俺は、お前にとって憎い相手でしかないはずだろう?それなのに、何故、お前は俺なんかのために、こんなことを…!」
心が痛かった。生きるために本能的にやったことであるとはいえ、自分が彼女にしてしまったこととさせてしまったことを思うと苦しかった。相容れない世界に暮らす彼女と過ごすうち、気がつけば、自らの行為を生きるため、と割り切れなくなってしまっていた。
「何でって…そんなのわからない!わからないけど、しょうがないじゃん…あたしはあんたのことが…!」
「シュリ…わかった。これ以上はいい」
「よくない」シュリはかぶりを振る。「しょうがないじゃん…あたしは、あんたのことが、ドゥーエのことが好きになっちゃったんだから…!」
彼女は泣きそうな顔でそう叫ぶと、再び彼の胸へと顔を埋めた。そして、くぐもったか細く弱々しい声で、どこか自嘲気味に続ける。
「…わかってる。こんなのおかしいって。あんたは”人喰い”でいつあたしのことを喰い殺すとも知れない存在だ。しかも、あんたはあたしの両親を喰った憎い相手だ。…あんたが”人喰い”だってことは、助けた後に気が付いた。けど、あの時のあんたは酷い怪我をしていたし、放っておけなかった。あんたが両親を喰った”人喰い”だってこともそんなにしないうちに気が付いたけど、怪我をして弱っているところをどうこうなんて真似、できなかった」
「…馬鹿だな、シュリは」
そう思う、と彼女が小さく笑ったのをドゥーエは感じた。馬鹿げてはいるけれど、そんな彼女の弱いけれど優しく真っ直ぐな部分に惹かれてしまった自分自身も同じくらい馬鹿なのかもしれないと彼は思った。
「そんなことをしているうちに、あたしはドゥーエのことを少しずつ知ってしまった。”人喰い”なんて人を喰らうだけの恐ろしい化け物だと思っていたけど、そんなことなかった。確かに人間を襲って食べるし、人間とは違うところだってあるけれど…こうやって普通に喋ったりできる、感情だってある、そういうことに気づいちゃったら、これまで通りになんて見られなくなってた。あたし、知ってるもん。ドゥーエが凄く綺麗に笑うことも、本当は凄く優しいことも、あたしのことを何かと気にかけてくれていることも。…生きるためにしたこととはいえ、あの日、あたしの両親を”喰った”ことで、自分を凄く責めていることも」
彼女は血の気のない顔を上げると、弱々しく微笑んだ。
「ドゥーエは”人喰い”には違いないけれど、あたしは…ドゥーエのそんなところに惹かれた。こんなの一時凌ぎにしかならないし、独り善がりの中途半端なわがままなのはわかってる。それでも、あたしはなるべくなら、あんたに人を傷つけて欲しくないし、かと言って、飢え死にだってして欲しくないから…。だから、あんたのためなら、あたし、このくらい惜しくない。寧ろ、このくらいしかしてあげられないのが悔しいよ。…本当におかしいよね。ドゥーエは憎まなきゃいけないはずの相手なのに…こういうのって、時間でも理屈でもないんだね…」
「…シュリ。好きだ。愛している」
ドゥーエはまだ涙で少し潤んでいるシュリの黒い瞳を見つめると、柔らかく穏やかな口調でそう告げた。彼の白皙の端正な顔と艶やかな夜闇と同じ色の髪がシュリの視界を覆い尽くした。次の瞬間、彼女の唇に、彼のそれが重なった。ほんの少しの間触れ合った後に、躊躇いがちに唇を離し、彼は彼女の細く小さな身体を抱きしめた。
「…すまなかった。シュリにこんな思いをさせ、こんなことをさせてしまって。お前の両親を”喰った”俺がこんなことを言うのはおかしいかもしれないが、お前が俺に死んでほしくないと思っているように、俺もお前にこんな自分を傷つけるような真似はして欲しくない。お前が大事だから、俺なんかのことより、自分のことを大事にして欲しい。頼むから、もう、こんなこと…」
「ドゥーエ…。ごめ…ん…」
弱々しい声で彼女はそう呟くと、意識を失った。

その夜、シュリは高い熱を出した。意識が戻らないまま、真っ赤な顔で苦しそうな浅い呼吸を繰り返す彼女のそばについていてやることしかドゥーエにはできなかった。薬の扱いに長けている彼女とは違い、彼には彼女のために熱冷ましの薬を煎じてやることもできない。ドゥーエは己の無力さが悔しくて、その薄く形の良い唇を噛んだ。彼女の額にあてがった濡れた布を冷たいものと取り替えてやりながら、
「この馬鹿が…」
ドゥーエのために己の腕を切り落とすなどという無茶をやってのけた寝台に横たわる彼女の顔を眺めながら、彼は毒づいた。こんなことならば、いっそ、彼女と出会わなければよかった。こんなことになるならば、こんな感情は知らないままでいたかった。人間となんて、こうして深く関わらずに、普通の”人喰い”のままでいたかった。けれど、生きていく上での大きな分岐は、どのようなきっかけで訪れるかわかったものではない。出会ってしまった運命と自分の中にいつの間にか深く根付いてしまった感情は、最早、理屈ではどうにもならなかった。誰かを好きになるということは、そういうことだとドゥーエは今、身に染みて感じていた。
「ドゥーエ…?」
意識が戻ったのか、気だるげな声音でシュリが彼の名を呼んだ。熱で黒の双眸が涙で潤んでいる。寝台から身を起こそうとし、傷が痛んだのか、彼女は呻き、バランスを崩した。その背中をドゥーエはさっと支えた。彼女は、熱で真っ赤な顔で、目線で服の袖の先の空洞を示し、弱々しく苦笑した。
「慣れるまでちょっと掛かりそうだね、これは」
「無理するな」
シュリはかぶりを振ると、残された右手で高い位置にあるドゥーエの顔に触れた。頬に添えられた小さな手は酷く熱かった。
「あたしは無理なんてしてない。あたし自信が自分で選んだことだから。あたしなんかよりも…ドゥーエのほうがよっぽど無理してる顔してる」
「俺は…そんなこと…は」
否定すると、彼女の手が顔を這い上がってきて、彼の左の目元に触れた。滲む視界に彼女が淡く弱く微笑むのが見えた。
「だったら、何でドゥーエが泣いてるわけ?…ごめん、あたしのせいだよね」
本当にごめん、そう詫びの言葉を口にすると、彼女は唇を噛んで俯いた。シュリのせいじゃない、そう言いかけたドゥーエを制し、彼女は、半ば独り言のように、
「こんなのあたしの独り善がりだよね。わかってる。わかってるけど、この前の一件で、ドゥーエが人間を食べないと生きていけないんだって、ちゃんとわかったから…だけど、あたしはドゥーエがああやって誰かを襲うのも見たくなくて…。こんなのその場凌ぎでしかないことなんてわかってる。ドゥーエにあたしのことを食べてもらうのが本当は一番良かったんだろうけど…あたしはドゥーエと一緒にいたかった、ずっとは無理でも、少しでも長く一緒にいたかった。でも、ドゥーエとこうして一緒に過ごせなくなっちゃうのが怖くて…ごめん、こんな中途半端なことしか出来なくて…。その結果、こうやって、ドゥーエのこと傷つけて…ごめん…」
嗚咽を漏らし始めたシュリにドゥーエは何も掛けてやるべき言葉が浮かばず、そっと、その寝乱れたぱさついた髪を撫でてやることしか出来なかった。シュリは縋るように彼の身体に顔を埋めた。彼女の涙が服に染みを描いたが、彼はされるがままにしていた。彼女は、涙混じりの掠れた声で叫ぶ。くぐもったその声はとても悲痛に彼の聴覚を貫いた。
「お願い…ドゥーエ…!お願いだから、あたしの腕、食べて…!」」
あまりにもその声が痛々しくて、彼はその言葉に対して、渋々ながらも頷いてやることしかできなかった。そうしてやらないと、何となく彼女が壊れて消えてしまいそうな気がした。彼女は少し安心したような表情を浮かべると、再び意識を失った。

夜明け前、ドゥーエは彼女の左腕を喰った。そのため、ほんの少し、彼は自身の本能の限界から遠ざかりはしたものの、いくら彼女が望んだことであったとはいえ、苦しくて、涙が溢れて止まらなかった。血にまみれて冷たくなった細い腕の骨肉を何も考えないように敢えて荒々しく噛み砕き、飲み下す。喉元を通り過ぎていくものの感覚に胃の内容物が逆流しかけたが、歯を食い縛って耐える。彼女の思いを無碍にはしたくなかった。彼は自身が”人喰い”として生まれてきたことをこれほどまでに恨んだことはなかった。すまない、彼は涙で滲む視界の隅で、熱に浮かされて苦しげに胸を上下させている彼女の寝顔に繰り返し呟いた。

それから、何日かが過ぎ、シュリの意識は戻りはしたものの、熱は一向に下がる兆しを見せなかった。ドゥーエにできるのは、水で濡らした布で汗を拭ってやったり、汚れた包帯や衣服を取り替えてやることくらいだった。寝たきりの彼女に代わって、彼女の指示に従って、慣れない手つきで熱冷ましや痛み止め、化膿止めなどといった薬を煎じて飲ませてやりもしたが、一向に効果が現れる様子はない。彼女はドゥーエに汚れた包帯を取り替えてもらいながら、赤く腫れ上がった肩の傷口を覆う緑色のどろどろとした悪臭を放つ膿を見やり、
「何か悪いものでも入ったかな…。薬は作れても医者じゃないから治療は専門外だし、何か最初の処置間違えたかも。やっぱり、こういうのって素人の見様見真似じゃ駄目だね」
弱々しく苦笑いするシュリに、ドゥーエは包帯を巻く手を止める。そして、バランスを崩さないように彼女の右肩にそっと手を置くと、彼女の瞳をまっすぐに見つめ、
「シュリ。町まで行って医者を呼んでくる。このままだと、お前は…!」
「そんなことをしたら、あんたが殺されちゃう…!あんたは、顔の割れた、町の人間に追われている”人喰い”でしょうが!そんなことになるくらいなら、あたしはこのまま…!」
一向に良くならないシュリの傷に焦れたドゥーエがそう切り出すと、彼女は、まるで幼子がするかのように、嫌々と激しくかぶりを振った。毛布から右腕を出すと、ドゥーエのくたびれた服の裾を掴み、今にも泣き出しそうな悲痛な声で、
「嫌だ!どこにも行かないで!あたしなんかのために、そんな危ないことしないで!これ以上、あたしのそばから、誰かがいなくなるのは嫌!一緒にいて、あたしから離れないでよ!一人に、しないで…っ!」
シュリにこんな真似はさせたくなかったし、こんな顔もさせたくはない。しかし、このままではシュリが死んでしまう。人間の医学に疎過ぎるほど疎いドゥーエであっても、それだけは何となくわかった。彼は無言のまま、熱くて細い身体に覆い被さるようにして抱きしめた。傷口が痛んだのか、彼女が熱で赤く染まった顔を歪めて呻いた。彼女の充血した黒の双眸からこぼれ落ちた滴が頬を伝う。
「あたし…まだ、ちゃんと、生きてるんだ…ね…。ドゥーエが、近くにいるの…わかる、から…。ねえ…あたし、あと、どのくらい、こうしてられるかな…あと、どのくらい…」
「言うな」彼女の言葉をドゥーエはそう鋭く制した。ぼたぼたと滴り落ち、眼下の彼女の黒髪を濡らしていく水滴が自身の涙だと気づくと同時に、喉が締め付けられるように苦しくなった。懇願するように彼は声を絞りだす。「言うな…頼むから…これ以上、言わないでくれ…」
きちんとした医者の治療にかかれば、まだ、彼女が助かる可能性はあるかもしれない。しかし、医者を呼びに行こうにも、ドゥーエは町の人間を喰らったことで追われている身だ。いくら怪我人だとはいえ、”人喰い”である彼と一緒にいることで、シュリ自身も治療どころか、化け物の肩を持つ人類を裏切った異端者として殺されてしまう可能性だって、大いに有り得る。かと言って、こんなままごとじみた素人の治療を続けたところで、回復の見込みは極めて低いだろう。このままでは、シュリの体力がじわじわと削られると共に、化膿が進み、着実に死に近づいていくだけでしかない。シュリにしろ、彼女の腕を喰らったことで僅かながらも限界を延ばしたドゥーエにしろ、衰弱していって、遠からず、どちらが先かはわからないが、確実に二人とも死に至る。助かる術がないわけではないというのに、二人とも、互いを想い合うあまり、その選択肢を躊躇うことなく切り捨ててしまっていた。迫り来る終焉の影を感じながらも、この儚すぎる刹那が愛おしくて、どちらともなく、互いの唇を重ね合った。伝わる涙の味が、今、確かにここにある二人の”生”を感じさせて、切なかった。華奢な身体の熱さと柔らかさが今すぐにでも消えてしまいそうな気がして、ドゥーエは、抱きしめたその腕をほどけなかった。

来る日も来る日もドゥーエは、寝たきりの彼女に対して、これからやがて訪れる運命を知りながらも昼夜を問わず、献身的に看病を続けた。日を重ねるごとに目に見えて、シュリが衰えていっている一方で、ドゥーエの身体にも変化が生じていた。”喰いたい”という飢餓感に、全身が干からびるような渇き、空腹による激しい吐き気とと身体の内側から刃物で刺されるような痛みにひっきりなしに苛まれていた。彼の生存本能が鳴らす警鐘である。ともすれば暴走しそうになる”人喰い”としての本能を彼は無理矢理押さえ込みながら、理性と本能の狭間で揺れていた。今、シュリが感じている痛みや苦しみに比べれば、このくらいはどうということはないと思うことで、彼もまた、自身の身体を苛むものと戦っていた。ともすれば、正気を失い、本能のままに暴走してしてしまうであろう苦しみに耐えることを強いられていることなど、気取られぬよう、表面上だけは努めて普通に振る舞っていたつもりだったが、
「ねえ、ドゥーエ…苦しいの?」
寝台の上から、シュリの気遣わしげな声が降ってきて、床に足を投げ出して座り込み、寝台に背を預けていたドゥーエは反射的に居ずまいを正した。一瞬、視界がぐわんと揺れ、吐き気がこみ上げてきたのを気力でやり過ごし、ドゥーエが何故、と顔を顰めて問うと、彼女は、やっぱり、と弱々しく微笑んだ。
「だって、わかるよ。どんなに隠そうとしたって、大事な人のことだから」
「な…」
か細いけれど慈しむような優しい声音でそう言い切られ、ドゥーエは絶句した。彼女はそっと、毛布の中から、手を伸ばして、指先で彼の頬に触れる。彼女の残りの生命を燃やすその熱さに、ふいに瞼の裏が熱くなった。彼女はぺたぺたと彼の顔に日々の過酷な暮らしの中で荒れたかさかさとした指先を這わせながら、
「ねえ…あたし、ドゥーエと生きたい…。ずっと一緒に、生きてたい…」
「しかし…シュリ…」
そんなことはできない、そう言いかけた彼を彼女がわかってる、と制した。二人とももう長くないということは、どちらも痛いくらい理解していることだった。
「お願い…あたしを、ドゥーエの中で生きさせて…。この先もずっと、一緒にいられるように…」
「…シュリ?」
言葉の真意が掴めず、彼は訝しげに彼女の名を呼んだ。何でもない、とかぶりを振った彼女は、何かを受け入れ、諦めたような表情をしていた。
「…キス、して?」熱で潤んだ切なさを帯びた双眸で、彼女はそう訴えた。「きっと、もうすぐ、あたしは…ドゥーエのことがわからなくなっちゃう、から…。だから、その前に、あたしも、ドゥーエも、生きて、今ここにいるんだってこと、確かめたい…」
「…ああ」
彼は頷くと、彼女のそれに自分の唇を重ねた。触れ合った感触が愛おしい。同時に、自分たちに残されている時間は、もう本当に残り僅かなのだということを痛いくらいに感じさせられる。
「ドゥーエ…好き…」
しばらくの後、名残惜しさを感じながらも、ドゥーエが唇を離すと、彼女は哀しげに微笑んだ。そして、彼女はそのまま、ふっと意識を失った。頬には涙が伝っていた。
「シュリ…愛している」
彼はそう呟くと、彼女の睫毛で光る水滴を指先で拭った。


身体が鉛のように重く、燃えるように熱かった。ほんの些細な動作ですら一苦労な上に、指先一つ動かすのでさえ、いちいち叫びだしたくなるほどの激痛が全身を駆け巡る。彼が凭れ掛かっている寝台の上で浅い呼吸を繰り返しながら眠る彼女を喰らえば、それらは多少なりとも和らぎ、死の淵から遠ざかれると己の生存本能が叫び続けていた。しかし、彼はそんな苦痛に耐えながら、ともすれば揺らいでしまいそうになる意志をぎりぎりのところで押し留めていた。
彼は意を決して、あの夜、彼女の腕を喰らった。こんな形になってしまったことが哀しいが、己のためを思って彼女の行動と払ってくれた犠牲を無碍にするような真似はできなかった。いつもならば、その身を潤し、美味いと感じるはずの人の肉は、刺すような匂いが鼻の奥を突き、塩辛いばかりでしかなかった。”人喰い”の本能に従って、人肉を喰らっただけのことでしかないはずなのに、シュリの肉を”喰った”という事実で胸が苦しく、彼は胃の中の物を吐き戻しそうになったことを覚えている。もう、あんな思いはしたくない。彼にとって、自分自身は、おぞましい化け物でしかなかった。
どうして、自分と彼女は異なる生き物で、彼女のことを苦しませることしかできないのか、どうして彼女のために何一つしてやれないのかと胸が痛かった。
ふいに、すっと背筋を何かが駆け上ってくるような感覚があった。物凄く大きな何か――彼自身の”生”の衝動だった。
(駄目だ。呑まれるな…!)
彼の黒耀の瞳が柘榴石のような赤へと色を変え、異様な光を帯びていく。彼は、必死に耐えようと唇を噛みしめる。ぐあっ、と喉の奥から呻き声が漏れる。意識が飛びそうになるほどの激痛に、視界が霞む。しかし、それでも、抗いきれず、彼は己の腕へとかぶりついた。己の牙が彼自身の肉へと深々と刺さる。ぼたぼたと床に赤い液体が落ちる。どうにか己の本能をやり過ごすと、ドゥーエは苦しそうに眠るシュリの額に乾いてひび割れたその唇を付ける。炎症が広がったのか、傷口だけでなく、衣服の間から覗く彼女の身体を蝕む腫れが痛々しかった。ドゥーエは重くふらつく身体をひきずるようにして、何度もよろけて床に膝をつきながらも立ち上がる。シュリによって綺麗に洗われ、畳まれた自分の外套を彼は身に纏った。棚を漁り、彼女が普段使っている両親の形見だという短剣を探し出すと、無造作に外套のポケットへと放り込んだ。カーテン越しに差し込んだ黄昏の光に、窓に己の姿がうっすらと映り込む。大丈夫、まだ俺は俺だ。自身の姿を何とはなしに確認し、彼は己に言い聞かせる。すまない、と掠れた声で短く詫びの言葉を口にすると、よろめきながら、音を立てないようにそっと彼女の小屋を出た。こんなことはただのドゥーエの自己満足に過ぎない上に、きっとシュリは怒るし、喜ばない。そんなことはわかってはいたものの、何もしないまま、大切なものを失って後悔するようなことだけはしたくなかった。まだ、自分が自分でいられるうちに、自分自身の意志で動いていられるうちに、彼女のために何かをしてやりたかった。だから、これでいいのだと、ドゥーエは自分自身へと言い聞かせ、手近にあった木の枝を手折ると、重い身体を支えるようにして、町の方角へと歩き始めた。

森を抜け、ドゥーエが町へと辿り着くころにはうっすらと夜の闇が落ち始めていた。流石はのんびりとした気質の田舎町というべきなのか、先日、ドゥーエがこの町で人を襲ったばかりだというのに、どうにも危機感が薄いのか、申し訳程度に当番らしき自警団の男たちがやる気なさげに歩いているだけだった。おかげで、ドゥーエは万全の状態ではないにも関わらず、彼らさえ避ければ、すんなりと町の中へと入り込むことができた。夕飯時なのか、いまいち垢抜けない料理屋や酒場が立ち並ぶ大通り以外には人気がなく、宵闇に紛れ、ドゥーエは、まるで自分のものではないかのように重い身体を引きずりながら、個人の診療所らしき建物を探し始めた。

夕飯を終え、彼女が戸締まりをしようとしているときのことだった。門扉に診療中の札が掛かったままになっていることに気付き、その札を外そうと手を伸ばした瞬間、彼女は背後から口を塞がれた。彼女はふくよかなその身体を捩らせてもがいたが、びくともしない。喉元を締め付けられ、苦しさと涙で滲んだ視界にちらりと映り込んだそれは犬歯と呼ぶには大きく鋭すぎる牙だった。”人喰い”だと彼女が気付いたと同時に、耳元で低い男の声が「騒ぐな」
なおも彼女は身を捩らせて暴れ続け、偶然、蹴り上げた足が門扉に掛けられた植物の鉢に当たり、その衝撃で地面へと落ちて割れた。ガッシャーンという焼き物の割れる音が人気のない路地に響く。ちっ、と舌打ちをすると、ドゥーエは腕の中の初老の女の首筋へと喰らいつこうとし、思い直して、手刀を叩き込んだ。自らの”人喰い”としての本能は燃え盛るようにこの女の骨肉を渇望していたが、すんでのところで、脳裏にシュリの顔がちらついて、思い留まってしまった。女が意識を失って地面に倒れたと同時に、玄関扉が開くがちゃりという音とともに、女と同じくらいの年格好の男が顔を覗かせた。
「なっ…」
絶句し、地面に倒れる女へと、男は駆け寄った。ドゥーエは小柄なその男を見下ろす格好で、
「お前、医者だな」
「…っ、お前が妻を…!」男はドゥーエを睨め上げる。「お前…”人喰い”か?」
「俺の質問に答えろ」彼は外套のポケットへと右手を突っ込むと、シュリの短剣を突きつけた。再度、断定するような口調で、「お前、医者だな」
「あ、ああ、そうだが…」顔面を蒼白にし、男は頷いた。そして、上ずった声で、「つ、妻は…」
「気を失わせただけだ。殺してはいない」
意識を失って地面に倒れる女に一瞥をくれ、ドゥーエは淡々とそう告げる。初老の医師はほっとしたように息を漏らした。手荒な真似をするつもりはない、落ち着いた声音でそう言ったドゥーエに対し、男は恐怖に身も声も震わせながら、
「”人喰い”、こんなことをして何のつもりだ!何が目的だ!すぐに自警団が…!」
「怪我人がいる。そいつの治療を」
男の言葉を遮り、淡々とドゥーエが要求を述べていると、軽い衝撃とともに彼の頬でパァンと音が弾けた。彼の手から短剣が滑り落ち、地面でカランと乾いた音を立てた。あまりの展開についていけなかったのか、医師の男は間の抜けた顔で魚のように口をぱくぱくさせながら、地面へとへたり込む。腰が抜けたようだ。
「なっ…」ドゥーエは振り返り、彼女の姿を認めると、その名を呼んだ。「シュリ…!?」
「ドゥーエ!」熱と怒りで顔を真っ赤にした少女が掠れた声で、「この馬鹿!何やって…!」
それだけ言うと、彼女は地面へと崩折れた。ドゥーエがいないことに気付いて、慌てて追いかけてきたのか、寝間着の上にケープを羽織っただけの姿で、左肩の傷口の包帯は緩んでほどけかけ、手足には手が滲んでいる。騒ぎを聞きつけたのか、近隣の住民が集まり始めてきており、自警団が来るのも最早、時間の問題だ。限界が近く、霞む視界をざっと確認し、ドゥーエは内心で溜息をつく。誰かが投げた石がドゥーエの頬を掠めた。頬が切れ、赤い筋が浮かび上がる。”人喰い”が出たというざわめきと礫を浴びせられながら、ドゥーエは頬の血をぞんざいに外套の肩口で拭うと、意識を失って倒れているシュリの身体を抱き上げた。その身体はひどく細く軽く、けれど、確かに生きている熱さがあった。この場を誰一人殺しも喰いもせずに生きて切り抜けるなんて、段々遠くなりかけている意識をそれこそ失ってしまいそうな話ではあるが、シュリは間違いなくそれを望むだろう。鉛のように重く、内側から焼かれるように痛む自由の利かない身体を翻し、彼はシュリの短剣を拾い上げると、人垣へと突っ込んでいった。シュリを守るように抱きかかえ、こめかみや背、腹など、全身に浴びせられる衝撃と暴走しかけている己の”人喰い”としての本能に歯を喰いしばって耐えながら、町の外を目指して、彼はよろめきながら駆け出した。

人々から逃れ、町を脱出してどうにか森へと転がり込むと、外套を脱いで、シュリの身体を包んで地面へと下ろした。彼は崩折れるようにして、地面に膝をつく。視界がぐわんと揺れる。全身が痛くて仕方がなく、ともすれば、意識が飛ぶか、発狂してしまいそうだった。何かが喉をせり上がってきて、思わず吐き出したそれが地面を染めた。口の中に鉄錆のような味が広がる。
「ドゥー…エ…?大丈…夫…?」意識を取り戻したのか、地面に横たわったまま、シュリが気遣わしげな視線を彼へと向ける。浅い呼吸で切れ切れに、「怪我…血も…あたしの、せい…ごめ、ん…」
「俺がこんなことをしなければ…すまない…すまない…シュリ…」
ドゥーエはかぶりを振り、悲痛な声で詫びの言葉を口にする。覗き込んだシュリの顔へ水滴が落ちる。
「ドゥーエ…?泣いて…るの…?」ゆっくりとぎこちなく、シュリの指が彼の目元を拭い、頬を撫でた。「ごめん…ありが…と…」
シュリの双眸からも涙が溢れだしていた。この少女が愛おしくて仕方がないという感情とこの少女を喰ってしまいたくて仕方がないという衝動はとても良く似たものとして、ドゥーエの中で薄皮を僅かに一枚隔てたところでせめぎ合っていて、ドゥーエはこの少女が欲しくて堪らなくて、思わず唇を重ねた。
「ねえ…ドゥーエ」唇を離すと、何かを察したように大人びた微笑をシュリは浮かべた。「あたしを…食べて?ねえ…欲しいんでしょう?もう…限界、なんでしょう…?」
「駄目だ…シュリ…」ドゥーエはかぶりを振る。「そんなことはできない…シュリ…」
「ねえ…ドゥーエ」哀しそうに、淋しそうに、シュリは言った。「帰ろ…う…?あたし…疲れ…ちゃっ…た…。ドゥーエ…も、疲れ…た、でしょ…?」
「ああ、そうだな」ドゥーエは頷いた。「帰ろう。シュリ」
ドゥーエは外套ごとシュリの身体を抱え直す。幸いにも二人とも、まだここでこうして生きている。まだ大丈夫だと己に言い聞かせ、よろめきながらどうにか立ち上がると、彼は彼女の家へと向かって歩き始めた。

彼女の家へと帰りつき、暖炉に火を入れて、シュリを寝台へと横たえると、彼女は再び意識を失った。ドゥーエは自らの傷の手当もそこそこに、彼女の手を握っているほかなかった。もう、疲れきって、動けそうになかった。彼は彼女の手を握り、寝台に凭れかかるようにしたまま、いつの間にか眠ってしまっていたのか、夜明け前、彼は囁くような細い彼女の声で目を覚ました。
「ドゥーエ…ねえ、ドゥーエ…」
「シュリ…?どうした、大丈夫か?」気遣わしげにそう問うた彼に彼女は大丈夫、と頷いた。彼は独りごちるように、「シュリ…本当にすまなかった」
「ドゥーエ…?どうして…どうして、謝るの…?」
唐突な彼の詫びの言葉に、シュリは訝しげに問うた。
「俺が…俺が、”人喰い”でなければ良かった…。俺が”人喰い”でなければ、こうして、シュリを傷つけることもなかったし、シュリを助けることだってできたはずだ」
「ドゥーエ…そんなこと、ない」シュリはかぶりを振る。「だって、ドゥーエが、”人喰い”…だったから、あたしたちは…出会えたん、でしょ…?」
「それは…」
口ごもるドゥーエに、シュリはゆっくりと、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「あたしが…好きになったのは…今、ここにいる…ドゥーエ、だよ…?”人喰い”、だけど、優しい、ドゥーエが、あたし…は、大好き、だよ…」
「シュリ…ありがとう」
彼がそう言って、見つめた彼女は滲み、まるで少しずつ、この世から輪郭が消えていこうとしているような気がした。シュリはそんなドゥーエの唇に自分のそれを重ねた。シュリは、優しく柔らかく、微笑むと、
「ドゥーエ…好きだよ…。愛…して…る…。だか…ら…」
だから、生きて。その言葉を最期に、彼女の生命は時間を止めた。カーテン越しに差し込む昇り始めた朝日が薄明るく、満足気に穏やかに微笑む彼女の顔を照らしていた。
「シュリ…シュリ!シュリィィィィィィ!」
やつれて痩せた細い肩をドゥーエは掴んで揺さぶったが、彼女はもう二度と、その声に応えることはなかった。冬の初めの朝、彼女の名を呼んでは泣き叫ぶ彼の声が悲しく響いた。
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