カケラ -close to you-

モドル | ススム | モクジ

  中編*埋め合う隙間に生まれるものは  

「…夢を…見た、の…」
彼女は彼の胸に顔を埋めてひくっひくっとしゃくりあげながら、涙に濡れて掠れたくぐもった声で呟いた。彼の腕の中で確かな鼓動と温もりを伝えている痩せた小さな身体が小刻みに震えているのが痛々しかった。彼女をこの状態のまま放ってはおいてはいけないと彼は強く感じた。それほど痛くはないものの彼女が無意識のうちに彼の胸に突き立てた爪の感触から、彼女の恐怖や哀しみ、怒りや憎悪が複雑に混ざり合ったのもが伝わって切なかった。溢れだした彼女の感情が彼の服の胸をじっとりと湿らせ、その痕跡を刻んでいく。彼女が彼の腕の中で何事か呟いたが、雨音に掻き消されて聞き取れなかった。何か言ったか、と彼女を刺激しないように、彼は努めて優しい落ち着いた声音で聞き返した。
「血が…」
「血?」
彼は眉根を寄せる。そう、と彼女が頷いたのがその小さな頭の動きからわかった。彼女は我に返ったように顔を上げると、彼の身体へと巻きつけていたその細腕を解き、泣き腫らした目を擦りながら、明後日の方向へ視線を逸らして、ごめん、とばつが悪そうに微かな声で短く詫びた。いや、と彼はかぶりを振り、完全にその身体からずり落ちてしまった毛布を彼女の肩に羽織らせてやる。ありがと、と彼女は礼を述べると、毛布を身体にしっかりと巻き付け直す。この地方の秋の夜はひどく冷え込むが、今夜のように雨が降っていると、それは殊更に厳しいものとなる。吐き出した吐息は宵闇と正反対の色をしていた。彼は自分の分の毛布と椅子を取ってくると、自分も毛布を羽織り、彼女と向かい合うようにして腰掛ける。まるで蓑虫のような姿になった彼女は寝台の上で膝を抱え、俯きながら、誰に話すのでもなく、ただ淡々と事実のみを語るかのように、先ほどとは打って変わって感情を押し殺した声音で、
「お父さんとお母さんが死んだときの夢を見たんだ」
彼は息を呑んだ。彼は何と言葉を返すべきかを考えあぐねていたが、それには構わず、彼女は先を続けた。

彼女は昔、この森から少し行ったところにある小さな田舎町・ノルスで暮らしていた。良く言えば素朴で、敢えて悪く言うのであれば垢抜けないこれといって特徴もないような町である。彼女はその町で薬師である両親と共に暮らしていた。
八年前のよく晴れたある秋の陽、彼女の一家はノルスで営んでいる薬の店を休み、幼い彼女のためのピクニックも兼ねて少し北に行ったところに位置する森へと薬草の採集に赴いた。さほど大きいわけではないが、良質な薬草が多く群生している森である。澄んだ空の青が優しく、ほんの少しだけ冷気を孕んだ風が心地良い日のことであり、幼い彼女は、家業の延長上であるとは言えども、両親と出掛けられることを喜んだ。鳥が可憐な声音で明るいメロディを奏でる中、木々の葉が赤や黄にその様相を粧い始めた森を彼女は彼女にとっての宝物になり得るものを拾い集めたり、虫や小動物を追いかけたりしていた。そんな幼い娘の姿を彼女の両親は微笑ましく思いながら見守る傍ら、森を訪れた本来の目的である薬草の採集をせっせと行なっていた。そんな穏やかに過ぎゆく、暖かな時間の中で、彼女が駆けまわったり、両親に教えを請いながら薬草の採集を手伝っているうちに、日が高くなり、秋とはいえどもうっすらと汗が滲む陽気となってきた。彼女の一家は休憩も兼ねて、森の中を流れる小川へと向かい、家から持ってきた彼女の母・フウナの手作りの弁当を広げた。白日の光を受けて、波紋を刻む川面がきらきらと光って、目に眩しい。水辺と秋の匂いが混ざり合っている中で摂る食事は、常の通り、簡素なものではあったものの、日常からほんの少し離れただけのことであっても特別なことであるかのように感じられてしまう年頃であったのも手伝ってか、なぜかいつもよりも美味しく感じられた。食事を終えると、彼女の両親は、普段、薬草の乾燥作業に使用している小屋に昼食の荷物を置くと、作業へと戻ったが、腹が膨れたことにより、彼女は川辺の紅に染まった葉を揺らす樹の根元へと腰を下ろし、そのまま眠ってしまった。少し高く見える秋空の下から柔らかな昼の陽光が降り注ぎ、小川のせせらぎと木々の葉のそよぐ音の織りなすハーモニーが控えめな子守唄を奏でていた。ゆっくりと穏やかに秋の日の昼が過ぎていき、風が冷たさを帯びて、夕方へと近づき始めたころ、彼女はつんざくような甲高い女性の悲鳴が聞こえたような気がして目を覚ました。「お母さん…?」靄がかかったかのようにぼんやりとして、はっきりしない寝起きの頭で、半ば寝言のように呟く。
川辺の風に晒され続けた肌はすっかり冷えきっており、彼女の口からくちゅんと小さなくしゃみが飛び出した。いつの間にか日が傾き、辺りが暗くなり始めていた。少しずつ眠気が抜けていくに連れて、思考が段々と戻ってきて、そろそろ戻ってきているはずの両親の姿がどこにもないということに気付く。そして、先ほど、夢と現実の狭間を彷徨いながら聞いた母のものと思われる悲鳴のことへと思考を巡らせ、両親の身に何かあったのではないかという可能性に辿り着く。身体の冷えとはまた別に、背筋にすっと冷たいものが走る。息が喉に引っかかる。彼女は、無意識のうちに爪が掌に食い込むほどに拳を握りしめ、昼食後、両親が薬草の採集のために入っていった邦楽へと駆け出していた。
嫌な予感に警鐘のように激しく苦しいほどに鼓動が胸に打ち付けられる。とうに夏も過ぎた時期の肌寒いはずの日の傾き始めたこの時間帯にも関わらず、首筋を冷たい水の珠が滑り落ちていき、ごわごわとした服の麻の布地を肌に張り付かせた。彼女は、土で少し黒っぽく汚れた服の袖口で、額に浮いた塩の味がする水滴を拭いながら、血液と同じ色に染まった葉を茂らせた、木々の間を複雑な曲線を絡ませる根に時折足を取られながら駆け抜けていく。ぜえはあと不規則に呼吸が乱れ、脇腹が疼痛を訴えていた。膨らみ続ける不安がつんと鼻の奥を突く。どうか杞憂であって欲しい――どうしたんだ、と頭を撫でてくれる土と汗の匂いが入り混じったがっしりと大きなごつごつとした父の手が、怖い夢でも見たの、と抱きしめてくれる薬草の匂いが仄かに香る母の優しい腕が恋しくて仕方がなかった。どれくらい走り続けただろうか、膝ががくがくと震え、足が言うことを聞かなくなったころ、それは彼女の視界よりも先に、聴覚へと飛び込んできた。ごきっごきっという低く鈍い固さのある何かが折れる音。そして、ぐちゃぐちゃという何かを喰らい、噛み砕くような音が続く。その異様さに、肌がぞわりと粟立つ。シュリの知る限りでは、この森には野犬や狼、熊などといった人を襲うような動物は生息してはいなかったはずである。彼女は意を決して、その音のする方へと恐る恐る視線を移す。刹那、視界に飛び込んできた光景に、反射的に飛び出した悲鳴が喉の奥に引っかかって細く掠れ、秋の黄昏時の冷え込み始めた空気を微かに震わせた。むっとした咽返るように生臭い暗い赤色の液体で濡れた土の上に、薄汚れ、半ば襤褸と化した黒い長い細身の外套に身を包んだ人影が屈み込んでいた。そこから少し離れたところに、土と血で汚れた籐籠が転がっており、中に入っていたはずの薬草がぶち撒けられていた。その傍には引きちぎられ、赤く染まった布が散乱している。それらの持ち主が誰であったかということに彼女は思い当たり、半ば倒れこむかのようにその場に座り込んだ。目の前に突きつけられた現実を受け入れることを拒むかのように、がくがくと全身が震える。がちがち、がちがち、と振動でぶつかり合う葉が音を立てる。早く逃げなければ、今度は自分がああなるのだと、本能が警鐘を激しく打ち鳴らしていたが、自分のものではないかのように、湿り気を帯びたひんやりと冷たい地面へと投げ出された両足は言うことを聞かなかった。力が入らない。何かを咀嚼するような音が聴覚の表面を撫でていく。彼女は視界に映り込む現実のあまりの異様さに、ただただ呆然として、その人影の食事と思しき行動を眺めていることしか出来なかった。骨と思しき堅いものがばきばきと噛み砕かれるような音が響く。見ないほうがいい、今すぐにこの場を離れるべきだと、脳内ではひっきりなしに警鐘がその鼓動と同じくらいに激しく打ち鳴らされているにも関わらず、彼女はその光景から目を逸らすことがどうしても出来なかった。ふいに、人影がこちらを振り返った。半ば襤褸と化した薄汚れた黒い外套のフードの奥の獣のように獰猛で異様な光を宿した血の色に爛々と輝く紅の双眸と視線が交錯したのをシュリは感じた。戦慄が、その幼く、小さい華奢な全身を駆け巡る。
(気付かれた…!食べられちゃう…っ!)
シュリは、その人影の口元に添えられているのが、母の頭部の上半分であり、その顎から腹に掛けて垂れ下がっている、ぐっしょりと湿った黒く長い糸状のものが母の毛髪であると理解した。亡き母の見開かれた目には、この上ない恐怖の色が浮かんでいた。ばきばき、ぐちゃぐちゃ、と頭蓋骨を噛み砕き、咀嚼する音と共に、その人物の口の中に母の頭部が消えていく。そして、残った毛髪をあたかも麺類か何かのようにずるずるとシュリに見せつけるかのように啜り、ごくりと嚥下する。口元に付着した血液を舌で舐め取ると、その人物は、およそ人のものとは思えない、獣のように鋭く発達した牙を覗かせてにぃっと笑った。
「――ッ!」
シュリは恐怖で動かない身体を鞭打つように叱咤し、やっとのことで手近な木の幹を掴んで立ち上がると、ゆっくいと後ずさる。そして、ぱっと身を翻すと、地面で複雑に絡まり合っている木の根に足を取られながらも、力の入らない足で駆け出した。
(お父さんっ…!お母さん…っ!)
両親を喰らったあの人影が後を追いかけてきているかどうか、背後を確認する余裕もなく、何度も躓き、転びながらも、これがまだ夢の続きであるならばどうか覚めて欲しいと願いながら、シュリは何度も何度も両親を胸中で呼びつづけた。そして、どこまで走ったのかは定かではないものの、何回目かに転んだのを機に、彼女の意識はそこでぷっつりと途絶えた。

目を覚ますと、シュリは同じノルスの町に住む父方の伯母の家の質素だけれど、清潔なシーツに包まれたベッドの上に寝かされていた。全身に擦り傷を負っており、じくじくとした痛みを感じたが、手当てが施された形跡があった。負っている傷の数こそは多いものの、一つ一つは大したことはなく、じきに治癒するであろうことは、幼いながらも薬師の娘として充分に理解できた。痛覚が戻ってくると同時に、記憶こそ曖昧であるものの、あの状況から生き延びたのだという事実をまだ靄がかかっているかのようにぼんやりとした頭で理解した。そして、段々と、森の中で遭遇したあの汚れた襤褸同然の外套を纏った長身痩躯の人物のことや両親が遂げた最期が脳裏に蘇ってきて、彼女は寝台の上に身を横たえたまま、擦り傷を負った量の幼い掌で顔を覆った。あのとき、森の中で目にした惨状が、母の頭部が咀嚼されて消えていく様が、そして、シュリと視線が交錯し、にぃっと笑ってみせた凶暴性を湛えた血の色の双眸が、彼女の網膜には未だ強烈過ぎるほど強烈かつ鮮明に焼き付いていた。母の断末魔が、そして、骨が噛み砕かれていく音が聴覚の奥で未だに繰り返し繰り返し鳴り響いていた。身体が震え、歯ががちがちと音を立てていた。こうして、今ここで大きな怪我もなく生き延びられているのは、とても幸運なことなのだと、自らに言い聞かせ、決して、泣くものかと唇を引き結ぶ。しかし、それにも関わらず、熱く塩辛い液体が眼窩から零れ落ち、頬を伝う。喉の奥から嗚咽が漏れ出し、細く痛ましい悲鳴じみた泣き声へと変わっていった。
「シュリ?気が付いたの?」
彼女の泣き声を聞きつけたのか、疲れた顔の痩せた小柄な中年の女性が、彼女の寝かされている部屋へと入ってきた。彼女の父方の伯母であるエレヌである。エレヌは、気遣わしげな面持ちで、シュリが横たわっている寝台へ歩み寄り、腰掛けると、大変な目に遭ったね、とシュリの細く小さな背を撫でた。そして、半ば独りごちるかのように、
「隣のシュトレーの街から、”人喰い”が出て、森の方へ行ったっていう連絡が来てね。警戒のために森の方まで自警団が行ったときに、怪我をして倒れているあんたを見つけて、うちに運び込んできたんだ」
「”人喰い”…?」
シュリは乱暴に手で涙を拭うと、傷が痛むのも構わずに寝台から身を起こし、呆然と呟いた。涙が手の傷に滲みた。エレヌは、ああ、と頷き、嫌悪に顔を歪め、吐き捨てるように、
「シュリも聞いたことぐらいはあるだろう?私たち人間の骨肉を喰らい、血を啜って生きているおぞましい連中だ」
「お父さんと、お母さんは、”人喰い”、に…”人喰い”に…食べられ、た…」
シュリは、自分自身に言い聞かせるためにも、涙で掠れた声でゆっくりと、その事実を口にする。
「…そう」
これ以上、今のシュリを刺激するのは酷だと思ったのか、彼女は腰を上げた。まずはゆっくりと身も心も休めなさい、そう言って、彼女は踵を返し、部屋を出て行った。少し遅れて、ぱたん、と木の扉が閉まる音がした。
「…”人喰い”」
シュリは、寝台の上で上半身を起こしたまま、傷ついた手を握りしめた。殺してやる。両親を喰ったあの”人喰い”をいつか必ず、この手で殺してやる。そんな暗く強い決意の炎が、喪失感で満たされていた幼い傷ついた心に宿った瞬間だった。

エレヌは、シュリにいつまでだって、この家にいてくれて構わないと言った。しかし、シュリは伯母一家に子供を一人余計に養育するほどの経済的な余裕が無いことも、できることなら出て行って欲しいと思っていることを幼いながらも気づいていた。薬師を名乗る流れ者の女と結婚した弟を伯母一家が疎ましく感じていることも、そんな弟の厄介なだけの忘れ形見である姪を抱え込みたくないであろうことをも彼女は冷静に察していた。両親を失い、頼れる当てもない幼い子供が採れる選択肢はひどく限られている。そのため、彼女は、傷が癒えたのを機に、伯母の家を出た。エレヌは世間体のため、形ばかりは引きとめようとはしてくれたものの、明らかにほっとしている様が見て取れた。シュリは、あの日、あの惨状を目の当りにすることになった森へと戻ることにした。自警団の面々が綺麗にしたのか、もう森からはあの”人喰い”のもたらした惨状も両親がいた痕跡も跡形もなく消え去って、静かな日常を取り戻していた。彼女は両親を亡くしたこの森で、彼らが使用していた小屋で、彼らの痛々しい死を悼みながら、”人喰い”への復讐心を秘めて暮らすことを決めた。まだ、僅か八歳という幼い少女には重すぎる決断であり、決意だった。

一切の感情を混じえない彼女の淡々とした声で語られていく彼女の凄惨な過去に、ドゥーエはある確信を覚えていた。
(あの日、シュリの両親を喰ったのは、間違いなく、俺だ…)
思い返してみれば、以前に自分がこの地方を訪れた時期とシュリが両親を”人喰い”に喰われて亡くした時期は完全に合致していた。それに、言われてみれば、夕方の森の中で自分が女を喰らっているのを見て逃げていった幼い少女の存在には、何となく覚えがある。ただ、今夜のこんなにも弱り切って、あまりに頼りない彼女の姿を見ていると、自分が”人喰い”であるという事実や、彼女の両親を喰ったのは自分であるということを告げるのは憚られた。決して、命惜しさからではない。このとき、できることなら、このまま、彼女の側にいて、守ってやりたいと、もう彼女にこんな顔も思いもさせたくないと、ドゥーエは強く思ってしまったのだった。この感情の正体も、この二週間感じ続けてきた思いの正体も、このときの彼はまだ知らなかった。
「…少しは、落ち着いたか?」
そう問うと、シュリは、うん、と泣き腫らして真っ赤に充血した目をすっかり冷えきってしまった手で擦りながら、照れくさそうに頷いた。そして、ばつが悪そうに俯いて、
「…ごめん、変な話して」
「いや、構わない。落ち着いたなら、もう寝ろ」
彼はわざとぶっきらぼうにそう言い放つ。彼女は寝台に身を横たえ、上目遣いにこちらを見やりながら、
「ドゥーエももう寝る?それともあたしと場所代わる?まだあんた、一応怪我人だし」
「俺は寝ないから気にすんな」でも、と尚も言い募ろうとする彼女を制し、「いいから。お前がこれ以上嫌な夢を見ないように見張っててやる」
我ながら意味のわからないことを言っているとドゥーエは思いながら、ばつが悪くなってあさっての方向へと視線を逸らした。そう、と彼女は頷き、そろりと毛布の中から、その細く華奢な手を伸ばしてきて、彼の手に触れた。ありがと、そう彼女が呟いた微かな声を彼の直核が捉えた。彼は、何となく、重ねられたその手を離したくなくて、大事なものを壊さないように扱うかのように、そっと、握り返した。

翌朝は、昨夜の雨が嘘であるかのような雲一つない見事なまでの秋晴れだった。赤や黄にその身を染め、朝日で光る透明な雫を乗せた木々の葉の間から覗く空はどこまでも高く、吸い込まれそうなほどに青かった。
ドゥーエは、悩んだ末に、まだ、もう暫くの間、シュリの元へと留まる旨を伝えた。あれから一晩、眠る彼女を見守り、その細く華奢な手を握り続け、屋根を打つ雨音を聞きながら、考えて彼が出した結論だった。彼は”人喰い”であり、人間である彼女は彼にとっての捕食対象だ。その上、彼は彼女が幼いころに、彼女の両親を喰らった彼女にとっての復讐の対象でもある。彼が”人喰い”としての本能を抑えきれずに彼女を襲い、傷つけてしまう可能性や、自信が彼女の両親を喰らった張本人であることが彼女に知れてしまう可能性を考慮するならば、今すぐにでもここを離れるべきだった。傷だってとっくに癒えている。けれど、彼女が時折見せる寂しげな表情や、根本的な原因は彼自身にあるとはいえども、彼女のあのような一面を知ってしまったからには、自分の素性が知れてしまうか、”人喰い”としての本能を抑えられなくなってしまう限界ぎりぎりのその時まで、彼女の側にいたかった。その細い身体で、強がりで日々を気丈に生きている彼女を再び一人にしてしまいたくなかった。
ドゥーエの申し出にシュリは、一瞬、驚いたようにその小動物じみた黒い目を瞠ったが、少し安堵したように、そう、と頷いた。彼女は出て行くと言っていた彼の気が変わったことに対して、理由を問い質すようなことはしなかったが、なぜだか少し嬉しそうに見えた。彼女は古びた薄い、色褪せてはいるものの清潔なケープを羽織ると、ちょっとついてきて、と言った。ドゥーエも彼女に倣って、シュリに繕ってもらった黒の外套を身に纏うと、促されるままに、彼女とともに家を出た。
秋の朝の森の空気は澄んでいるが、刺すように冷たく、息を吐く度に白いものが空気中に霧散した。昨日の雨で地面がぬかるみ、歩きにくいことの上なかったが、シュリは、時折、花を手折っては花束を作るかのように束ねながら、流石に長年この森で暮らしているだけのことはあって、慣れたふうに歩を進めていく。そして、どのくらい歩いただろうか、彼の記憶にも朧げに残っているその場所へと二人は辿り着いた。ここは恐らく、ドゥーエがあの日、シュリの両親を喰らった場所で間違いない。
「…今日はね、あたしの父さんと母さんの命日なんだ」彼女はドゥーエを振り返るとその黒の澄んだ双眸に哀しげな光を湛えて、寂しそうにそう言った。「八年前の今日の夕方、この場所で”人喰い”に襲われて…喰われた」
何も残らなかった、彼女は感情を押し殺した低い声でそう言うと、膝を追って屈み込み、来る道々で作った花束を地面へと置いた。彼女は目を閉じ、かじかんだ真っ赤な掌を暫くの間、合わせていたが、晒された白い膝についた土を払って立ち上がり、側で一部始終を黙って見守っていたドゥーエへと妙な感傷に付き合わせて悪かった、と短い詫びの言葉を口にした。
(これは…きついな)
それが自らの性であるからどうしようもないことではあるものの、己が彼女に刻んだ傷跡の生々しさに触れて、彼はそう思った。人間は何かにつけて故人を忍び悼むものだが、彼女にはそのつもりは恐らくないものの、これではお前のせいだと間接的に責任を追及されているようなものだ。
(いや、俺の責任であることには間違いないが…)
ただ、自分が生きるために必要だったからやった、それだけのことだった。快楽のため、本能に任せて人を襲い、喰らう同類がいることは否めないが、彼は、自分が生きるために必要なとき以外は人を喰らわない。それをこのような形で断罪されてしまうことも、彼女が背負っているこの現実も、決して噛みあうことがないだけに、直視するのが辛かった。そんな彼の心境を知ってか知らずか、彼女は噛みしめるように、
「ねえ、ドゥーエ…あたしは、忘れたくないんだ。八年前のあの日のことを。父さんと母さんのことを。二人はもうこの世にはいないけれど、あたしはまだこうしてちゃんと生きてるって、伝えたいんだ。二人を襲った”人喰い”のことも決して忘れない。いつか、きっと、この手で父さんと母さんの仇を討つためにも、今日を、明日を、自分の足で立って、強くあたしは生きていかなきゃいけない。そのことを再確認するためにも、あたしは毎年ここへ来るんだ」
そう言って、ドゥーエを真っ直ぐに見上げる黒い双眸は強い決意に満ちていて、彼は何も言えなかった。そんな彼にはお構いなしに、彼女は打って変わって、いつも通りの明るいさばけた口調で、
「さて、じゃあ、用も済んだし戻ろうか。朝ごはんもまだだしね」
「…ああ」
そう彼が頷くと、シュリは踵を返した。

それからというもの、ドゥーエは少しずつ近づいてくる次の季節への準備を進めるシュリを手伝いながら、彼女の元で暮らした。秋である今は実りの多いこの森も、やがて冬が訪れれば、雪に閉ざされ、日々の食料を得ることも一気に困難と化する。色とりどりの木の実やきのこの類、野草を採集し、必要最低限の小動物や魚を短剣や網を巧みに操っては狩り、当分の間の薪にするための枝々を拾い集めていく彼女の手際にそれを側で彼は手伝いながら感心しつつも、彼が奪い、彼女が送ってきたであろうこの八年の時を思うと胸が痛んだ。
「…シュリは、強いな」
ドゥーエはその小さく華奢な背には大き過ぎる使い込まれた籐の籠に彼女が小鎌で刈り取ったばかりの青臭いやそうの束をシュリが無造作に放り込むさまを視線で何とはなしに追いかけながら、ぼそっと口の中で小さく呟いた。聞こえてしまっていたのか、怪訝そうに彼女がこちらを振り返る。
「何か言った?」
何でもない、と彼が素っ気なく応じると、嘘だあ、と彼女は不満気に頬を膨らませ、上目遣いで彼を半ば睨むかのように見上げてきた。その仕草が彼女にしては珍しく歳相応の少女らしく可愛らしくて、内心で彼は度肝を抜かれつつ、それを決して彼女に悟られまいと明後日の方向へと視線を逸らした。普段は自分が女であるということを忘れているのではないかとこちらが危ぶむくらい、無頓着な言動が多いというのにこれは反則だ。彼女よりも長さのある夜闇と同じ色に髪で隠れたこめかみの辺りに突き刺さる視線から、こちらが言うまで諦める気がないことを悟り、彼は苦々しげに息を漏らすと、彼女へと向き直る。
「シュリは凄い、そう言っただけだ」
わざと不機嫌そうな早口でそう告げると、一瞬、何のことだかわからなかったようで、シュリはきょとんとした表情を見せた。少しの間、逡巡していたものの、やがて思い当たったかのように、ああ、と頷くと、
「だってほら、慣れてるから。冬の準備なんて毎年のことだし、このくらいのこと、できないと、こんなところで一人でなんて生きていけないから」
「…そうか」
何てことはないとでもいったふうにさらっとそう言ってのけた彼女に対し、苦々しい思いを抱きながら、ドゥーエは相槌を打つ。彼女はほろ苦いけれど、どこか何かを懐かしむように遠くヘと視線を投げかけると、
「あたしだって、最初からこんなふうに全部出来てたわけじゃない。子供なりに何が生きていくために必要かって考えて、試行錯誤を重ねて、そうやって生きてきた。慣れてしまっただけといえば、そうだとも言えるけれど、誰のちからも借りずに一人で生きていくっていうのはそういうことだよ。自分でやっていくしかないんだ。何もかも」
彼女は強い。ドゥーエは改めて、そう感じた。この強さや逞しさこそが、町で暮らす何も知らない人々に魔女呼ばわりされてしまう所以なのだろう。しかし、当たり前のことのように彼女はそうは言うものの、彼女にとって、これを当たり前のことにさせてしまったのは自分なのだと思うと、心苦しくて、何も言えなかった。
「…ドゥーエ?」黙りこんでしまった彼へシュリは少し困惑したように、「あたし…何か変なこと言った?」
「…いや」
そう、と明らかに納得していないようでありながらも、彼女はそう応じる。二人の間に流れる微妙な空気を断ち切るかのように、彼女は努めて明るい口調で、片手を腰に当て、
「ほら、ドゥーエ、まだまだやることいっぱいあるんだから、無駄口叩いてないで、ちゃんと手動かしてよね。さっきからずっと手止まってる」
「…ああ、悪い」
そんなふうにわざと口を尖らせてみせる彼女に彼はそう詫びの言葉を口にすると、小鎌をただ握りっぱなしになっていた手を動かし始める。傍らで手際よく慣れたふうに作業を進めていく彼女に気付かれないように視線をやりながら、やはり、彼女は強い、とドゥーエは感じた。

冬の準備に必要なのは、食料の採集だけではない。集めてきたそれらを日持ちさせるための加工といった作業も必要となる。
川で捕らえてきた魚の腹を開いて腸を取り出すという作業を最早機械的と言っていいくらいに無駄なく淡々とやってのけていくシュリを傍らで盗み見ながら、見よう見真似で彼女の何倍もの遅さで彼が包丁を操っていると、
「…ドゥーエ」作業の手を止めて、彼女は、彼の手元を見やると、呆れたように嘆息する。「…不器用」
仕方ないだろう、そう反論しかけたが、彼はぐっとそれを喉の奥へと飲み込む。”人喰い”である自分がこれまで捕食対象としか見なしてこなかった人間の暮らしに自分が疎いことについては否定のしようがない。しかし、それを口にしてしまえば、”人喰い”であるという事実が彼女に知れてしまう。彼女は彼の手元と顔ををしげしげと見比べながら、
「ドゥーエ…あんたさ、こういうの慣れてないでしょ?男の人の割に細くて綺麗な手してるもんね、あんた」
「は…?」
そう言うと彼女は彼の手の甲へとさり気なく自身の掌を重ねてきた。その生活を支えているとは思えないほど小さな彼女の手は、その生き様を表すかのように荒れてざらついてはいたものの、その健気さを愛おしいと彼は思った。
「あんた、格好とか持ち物こそ旅人みたいな感じだけど、髪とか顔とか凄く綺麗だよね。髪とかこんなに長いのにあたしなんかより、ずっと艶があってさらさらで」
すっと彼の髪を手で梳いてみせながら、さらっとそんなことを言ってのけるシュリに、ドゥーエは不快ではないものの、何だかとてもこそばゆい、居心地の悪さに駆られた。言った当の本人には他意は無いようで、不思議そうに彼を見ている。先ほど彼女が褒めた艶やかな漆黒の髪で隠れた、”人喰い”特有の尖った耳が熱かった。
「ほら、あたし、そっちの残りもやっちゃうから、それ貸して」
「…あ、ああ」
動揺と心臓の鼓動の早さを悟られまいと、わざと不機嫌そうに顔を顰めて、ドゥーエはぎこちなく頷く。そして、手にしていた包丁を彼女に手渡そうとして、その刃先が彼女の手に軽く触れ、薄く、その皮膚を割いた。少し遅れて、じわりと傷口に赤いものが滲む。
「つっ」
「あっ」
驚いた二人の声が重なる。彼女が顔を顰めるのと同時に、ドゥーエは焦ったように、
「悪い…シュリ、大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫、このくらいよくあることだし問題ない」
そう苦笑するシュリの声を聴覚で捉えながら、彼はある衝動が自分の中で覚醒していくのを感じていた。喉がごくりと音を鳴らす。シュリの手を汚している血液の赤い色が視線を捕らえて離さない。彼の”人喰い”としての本能が今すぐにそれを欲しい、喰いたいと訴えていた。思えば、ここ暫く、人間の血や肉を口にしていない。
(駄目だ。シュリは…シュリだけは駄目だ)
「…ドゥーエ?」
傷口を凝視する彼に、シュリは訝しげにその名を呼んだ。彼は、我に返ると、しどろもどろに、
「…悪い。慣れないことをして少し疲れた。ちょっと外の空気を吸ってくる」
早口に言い訳にもなっていない理由を捲し立てると、彼は自分の外套を身に纏い、彼女から逃げるように家を出た。

その日の夜遅くになって、家へ戻ってきたドゥーエをシュリは一切咎めもしなければ、先刻の言動について特に詮索すらしてこなかった。彼女は何事もなかったかのように、おかえり、と普段通りの明るい声で彼を出迎えると、本来ならとうに寝ていてもおかしくない時間だというのにも関わらず、こんな季節だから寒かったでしょ、すぐ夕飯にするね、と夕飯を待っていてくれたらしく、鍋を火にかけ、温め始めた。鍋から湯気が立ち上り始めると同時に良い香りが漂いだし、彼の鼻腔を擽った。木の椀に鍋の中身をよそっている彼女を何とはなしに眺め、彼女が生きていてくれて、この手で殺めてしまったりなんてしていなくて良かったと安心した。
「シュリ」彼はてきぱきと働く少女の華奢な背へとぼそぼそとした小さな声で話しかけた。「何故、お前は俺のことを待っていたんだ?」
「何でって」彼女はきょとんとした表情を浮かべて、ドゥーエを振り返った。火の側にいたことで、うっすらと浮かんだ額の汗を服の袖で拭うと、二人分の食事を彼の待つ簡素な木の食卓へと運んでくる。卓と揃いの如何にも手作りといったふうの椅子に彼女は腰を下ろすと、さも当然といったふうに、「だってほら、せっかく、おかえりって迎えてあげられる相手がいるんだから、待ってたいって思うのが普通でしょ?」
こういうのちょっと憧れだったんだよね、と彼女は少し照れくさそうに笑った。彼は食事の手を休め、眩しいものを見るように、その切れ長の漆黒の双眸を眇める。彼は、羨望と寂しさが一対三くらいの割合で混ざり合ったような笑みを口元に浮かべると、静かな声で、
「わからないな。…けれど、こういうのも悪くはない」
気が付いたころから、生きるために各地を追われるように放浪してきた彼には、帰るべき場所や暖かく迎えてくれる家族などといったものは縁遠く、人間にはそういった文化があるということを知識として知っているだけだった。それでも、彼はこうしてシュリと出会い、共に過ごすようになってから、誰かが側にいるということの暖かさを知った。基本的にさばさばとさっぱりした気性の彼女とは一緒にいても、不思議と窮屈さも居心地の悪さもさほど感じなかった。それは、お互いこれまで長い間、独りで過ごしてきた者同士だからこそなのかもしれなかった。彼女は捕食対象である人間であるにも関わらず、一緒に過ごし、彼女を知っていくうちに、ただこういう時がいつまでも続いていけばいいとすら思うようになってきていた。こういった感覚を家族というのかもしれないし、もしかしたらそういったものとは微妙に違う類の感情なのかも知れなかったが、この時の彼にはその差はまだわからなかった。
「…どうした?」
透き通るような黒い瞳が何か言いたげな視線をこちらへと放っているのに気付き、ドゥーエは問うた。何でもない、と彼女はかぶりを振った。年頃の娘にしては短めの黒髪がさらりと揺れた。
「いや、構わない」
食事を再開した彼女に倣い、彼も黙々と手を動かし始めた。夜が更けようとしていた。

それから、一週間が経った。秋から冬へと移り変わろうというこの時期の夜は殊更に冷える。人間とは違い、このくらいの寒さであればどうということはないが、ドゥーエは昼間に干した太陽の匂いがする毛布に包まり、眠れないまま、床へと身を横たえていた。傍らの寝台の上からはとうに眠りについたシュリのすうすうという安心しきったような寝息が聞こえていた。すぐ近くにその身に危険を及ぼしかねない”人喰い”がいるなんていうことを全く想定していないのは仕方ないとしても、すぐ傍で少し前までは全く知らなかった男が一緒に寝ているというのに何の警戒心も抱いていなさそうな無防備さに彼は複雑な気持ちになる。それだけ信頼してくれているのは少し嬉しいような気がしないでもないものの、自分が”人喰い”であり、尚且つ男でもある以上、そんなに信頼しないで欲しい、と強く思う。ここへ来てからというもの、全く人間の血も肉も口にしてはいない。喰ってやろうかとあまりの無防備さにそんな思考が脳裏を掠めていったが、そんなことができないのは重々承知していた。そんなことをするには、あまりにも情が移り過ぎたとでも言うのだろうか、単なる捕食対象として見るには、彼は彼女のことを知り過ぎてしまっていた。これが”人喰い”として致命的な感情であるというのもわかっている。”断食”を強いられ続け、全身に倦怠感と内側から刺されているかのような痛みが出てきていた。自分の生存本能が警鐘を鳴らしているのだろうと察してはいた。精神力で己の本能を無理矢理ねじ伏せ、抗っているのだから当然だ。
うっ、と背筋を走り抜けていった痛みに彼は不快げに顔を歪めた。どうにか痛みをやり過ごすと、彼はもぞもぞと身を起こした。身体に巻きつけていた毛布がぱさりと音を立てて床へと落ちた。この痛みのせいで一体、もう何日眠れていないだろう。彼にとって、生きていく上で睡眠は基本的にはなくても支障は無いとは言えど、シュリが眠ってしまってから、次の朝を迎えるまでの間、一人でこの痛みと向き合い続けるというのは精神的に堪えるものがある。弱くなったな、と彼は自嘲の笑みを浮かべる。寝台に包まった毛布の間から、シュリのあどけない寝顔が覗いていた。柔らかそうな肌に喰いたいという”人喰い”としての本能が彼の意志とは無関係に湧き起こってくるのを感じた。もう、そろそろ限界だろう。自分の本能を完全に抑えておけなくなる前に、彼女を喰ってしまう前に、ここを離れよう。彼は、自分の使い古した黒の外套を羽織った。
「ドゥーエ…」
気怠い眠たげな声に彼は名前を呼ばれ、寝台を振り返った。起こしてしまったかと一瞬焦ったものの、ただの寝言であったようで、ドゥーエは胸を撫で下ろした。
「やだ…行かないで…。一人に、しないで…ドゥーエ…。ドゥーエ…」
一体どんな夢を見ているのか、閉じられた双眸から流れだした水滴がその頬を伝っていった。悲しげに夢の中で名前を呼ぶ彼女が痛々しくて、指で涙を拭ってやる。心が痛かった。ドゥーエは寝乱れたぱさぱさの彼女の黒髪を一房掬い取ると口付けた。
「シュリ…すまない」
そう低い声で彼は短く詫びの言葉を口にする。こうして正夢のような形で彼女を独りにしてしまうことに後ろ髪を引かれる思いだった。さよなら、と彼はそう静かに告げると、少ない荷物の入った古びた荷袋を担ぎ、眠る彼女を起こさないように気を配りながら、静かな風のように、部屋の外へと出て行った。

翌朝、シュリは普段よりも早い時間に目が覚めた。まだ夜は明けきっておらず、辺りは暗い。しっかりと身体に毛布を巻きつけていたにも関わらず、壁の隙間から入り込んできた風が冷たかった。吐く息が白く、闇に浮かび上がる。けれど、それだけでなく何となく寒い、そんなことをまだ眠気の抜け切らない頭で考える。
「ドゥーエ、寒くな…」
半ば寝言のようにそう寝台の下へと向かって話しかけ、そこにいるはずの長身の男の気配がないことに気付く。ドゥーエ、と再度その名を呼ぶが、彼女の他に部屋の中に人の気配はない。シュリは慌てて、毛布を跳ね除けて飛び起き、彼自身と彼の外套と持ち物が姿を消しているのを確認すると、壁に吊るしてあった使いふるしのごわごわとしたケープを毟り取って寝間着の上から羽織り、寝台の下のくたびれたブーツを素足に突っかけて部屋を飛び出した。晩秋の夜明け前の森の空気は刺すように冷たく、薄着の身体に鳥肌が立った。シュリはそんなことには構わず、森の入口の方へと駆け出した。もしかしたら、まだこの近くにいるかもしれない、彼を連れ戻してどうしたいのかはわからなかったが、そんな一縷の望みを持って、白くきらきらと光る下の上をざくざくと音を鳴らしながら、彼女は走った。恐らく、何かしらの意志を持って出て行ったのは間違いはないというのに、それをどうしようというのか。そもそも彼は、突如として自分の日常に入り込んできたに過ぎないというのに、いるのが何となく当たり前になってしまっていた。シュリは夜明け前の薄闇に対照的な色の息を吐きながら、
(…あの馬鹿。あたしは…)
息が乱れ、冷気に喉が痛みを訴え始めるころには、森の入口も近づいて、木々が少しずつまばらになってきた。シュリは違和感を覚え、足を止めて、その違和感の正体を探るように聴覚を研ぎ澄ませた。
(あっちの方が何か…騒がしい…?)
胸騒ぎを覚え、シュリは再び駆け出した。

(…しくじった)
ドゥーエは苦々しい思いで、武器を持った男たちと対峙していた。限界に達した空腹を満たすため、旅人らしき男たちの集団を襲ったはいいが、全て仕留め切れはしなかった。そのため、彼らの抵抗を受け、その結果が今、彼の右の二の腕を深々と刺し貫いていた。向こうにも傷は負わせてはいるものの、こちらも手負いである上に暫くまともな”食事”を摂っていないため、本調子には程遠い。相手は複数だが、こちらは一人だった。不利な状況を打開すべく、この森の中へと後退しては来たものの、彼らを引き離すことは叶わなかった。追い詰められ、どうしたものかと逡巡していた彼は、こちらへと向かってくる足音を聞いて、顔を顰めた。
(シュリ…!何故…!)
まずい。このままでは、彼女に自分が”人喰い”であることが知れてしまう。今まで自分がしてきたことを鑑みれば仕方がないことであるとは言えど、嫌悪で彼女の顔が歪むのを見たくはなかった。彼女にこんなところを見せたくはない。焦り始めた彼を囲んでいる中年の男たちが短剣を手にじわじわとその包囲網を狭めてきた。
「ドゥーエ!」
息を切らしてそう叫びながら、彼と男たちの間に飛び込んできたシュリの寝乱れてあちこち跳ねたままの黒髪が、一瞬、彼の視界を埋めた。今にもドゥーエへ斬りかかろうとしていた男たちはいきなりの闖入者の存在に動きを止め、彼女を見た。
「シュリ!何をして…!」
彼女は黙れと言わんばかりに振り返って彼を睨め上げると、男たちへと向き直る。ドゥーエの前に庇うように立ちはだかる彼女に、男たちは困惑を隠し切れないようだったが、一番年嵩の男が表情と同じく厳しく険しい声音で、
「お嬢さん。その男は”人喰い”だ。俺たちやあんたを捕食対象としてしか見ていない生き物だ。何故、そんな化け物を庇おうとする?」
男の口から自身の正体を告げられ、ドゥーエは凍りついた。いずれ彼女に知れてしまう可能性はあったものの、最悪のパターンだった。しかし、シュリは突きつけられた事実に動揺したふうもなく、毅然として男へと言い返す。
「だから何?ドゥーエを庇うのに理由なんていらない、ドゥーエを傷つけることはあたしが許さない」
「だから、その男は”人喰い”だと…」
「そんなことわかってる。だから何?どうしても彼を傷つけるというなら、先にあたしを殺しな。あたしがここにいるうちはもうこれ以上、ドゥーエに指一本触れさせやしない」
尚も言い募る男にシュリは強い口調でそう畳み掛ける。わかってる、今しがた彼女が口にした言葉が耳の奥で反響する。一体、いつの間に彼女に知れてしまったのか。肝が冷えた。彼は自分の表情が強張るのを感じた。同時にある疑問が脳裏を横切った。何故、シュリは自分の正体を知っていて尚、一緒に過ごすことを選び、今もこうして庇おうとしてくれているのか。両親を喰い殺した”人喰い”であるドゥーエは、彼女にとって最も憎い相手であるはずだ。不可解だった。シュリの返答に苛立った表情を浮かべた男たちのうちの一人が不意に手にした短剣を彼女へと向けて投げた。それを視界が捉えると同時にドゥーエの身体は反射的に動き、短剣を叩き落とした。地面に落ちた短剣がからんと音を響かせる。ドゥーエの身体の中で何かが弾け、視界が一瞬白く閃いた。全身が燃えるように熱く、血管がどくどくと脈打つ。背筋を抑えきれない衝動が走り抜けていく。ドゥーエは風のような速さで男たちの喉笛を噛みちぎっていった。断末魔と共に呆気無く絶命していった男たちの屍肉に彼は喰らいつく。むわっとするような血の臭いが湿った空気に混じって辺りに立ち込め、地面や彼の口持ちを赤く染めた。久々の人肉に換気し、彼はぐしゃぐしゃと先程まで人間だったものを貪った。噛み砕かれる骨の音に気分が高揚するのを感じる。どこか遠いところで、半ば悲鳴のように彼の名を呼ぶ甲高い若い娘の声がしたような気がしたが、そんなことはどうでもよかった。食の、生の欲求を満たすことが今は最優先だった。
地面に残る血溜まりと男たちの衣服の残骸以外に彼らが先ほどまでここにいた痕跡が無くなったころ、食欲が満たされたドゥーエは、彼を止めるように背にしがみついた温もりの存在に我に返った。伝わってくる小刻みな振動に、彼女の名を予防としたが、今しがた彼女が目にしたもののことを考えるとできなかった。彼は、背から彼女を引き剥がすと、無言のまま立ち上がった。そして、踵を返そうとした彼の腕を彼女が引き止めるように掴んだ。その細いてはまだ震えていた。彼女は俯き、感情の抜け落ちたような声音で、
「…帰るよ」
ただそう告げると、有無を言わさず、彼女は彼の手を引いて、元来た道を引き返し始めた。木々の間から覗く空が色を変え始めていた。夜が明けようとしていた。

ドゥーエが”人喰い”であるということがシュリに知れ、彼女に人を喰らうところを見られてしまったあの日の朝から、数日が過ぎた。彼女の家へと強制的に連れ帰られた彼は、最初にここへ来たとき同様に怪我を負っていたこともあり、彼女の元へと再び逗留していた。ただ、あのときと一つ決定的に違うのは、二人の間には重苦しい空気が流れ、何の会話も交わさないでいることだった。彼はどうしようもなく、日がな一日、小屋の窓の外を眺め、一方のシュリは古い手帳のようなものを読み耽っては、何か薬草を煮詰めたりして過ごしていた。今も彼女は思いつめたような顔で何かを作っていたようで、火から鍋を外すと、まだぶくぶくと熱で泡立っている青い液体を壜に移し替えていた。作業が一段落したのか、彼女は瓶の水で手を洗うと、棚に並ぶ薬品の壜を数本とできたばかりの薬と思しき液体の詰まった壜を手にして、何も言わずに小屋を出て行った。その背から何かただならぬものを感じたものの、彼には何も言わずにそれを見送ることしかできなかった。暫く彼女が小屋の外の納屋で何かを探すように漁っている音がしていたが、それもじきに聞こえなくなった。ここ何日か、彼女があんな思いつめた顔をしていたのは、どう考えてもこの前の一件が原因だろう。ただ、彼女はあれから、一切、彼を非難したり、嫌悪したりするような言葉は一言も口にはしなかった。そのため、彼は今日も彼女の様子が気になりながらも、その帰りを待つことしかできなかった。

昼前にどこかへと出かけていったシュリが小屋へと戻ってきたのは夕方だった。半ば倒れこむようにして、部屋へと入ってきた彼女を見て、ドゥーエは言葉を失った。もう出血自体は止まっているようだが、左肩が血で赤く染まっている。大量に血を失ったのか、その顔色は蒼白だった。そして、何よりも目を引いたのは、左肩から先にあるはずの腕が無くなっていることだった。
「シュリ…!」ドゥーエは思わず彼女へと駆け寄った。手を伸ばし、その華奢な力ない身体を抱きとめる。「シュリ、一体何が…!」
彼女は右手で引きずっていた血に汚れた斧を床に放り出すと、脇に抱えていたものを彼へと差し出した。彼女が手にしていたそれは、本来あるはずの場所から姿を消した、彼女自身の左腕だった。
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