カケラ -close to you-

モドル | ススム | モクジ

  前編*出会った二人の欠けし者たち  

ぺたり、と額に水気を含んだ冷たいものが触れたのを感じて、彼はうっすらと瞼を開いた。視界に木でできた天井が映り込む。意識と共に身体に痛みが戻ってくるが、思っていたほどではない。頭と背に柔らかいものが触れており、身体にも柔らかな布が掛けられていた。知らない場所だった。ここは一体どこなのだろうと訝りながら彼は身体を起こした。どのくらいの時間眠っていたのだろうか。骨が軋んだ。
「目が覚めた?」
そんな問いかけとともに、水の入った木製の手桶を片手に、ところどころ解れて繕った形跡のある近くの田舎町の住人よりも更に粗末な麻の衣服に身を包んだ、肩に届くか届かないかの長さで切りそろえたぱさぱさの黒髪に小動物を思わせるくりくりとした黒い瞳の小柄な少女が彼の顔を覗き込んだ。見たところ、年齢は十五、六といったところである。
「ここは…?」
彼は掠れた声で彼女へ問うた。熱があったからなのか、喉が張り付いて上手く声が出ない。気づいた彼女が床に桶を置き、サイドテーブルから木の椀と水差しを取り上げ、水を注いで彼へ手渡しながら、
「ここはあたしの家。森の入口で倒れてたから、とりあえず運んで…というよりは引きずってきた。何か怪我してたみたいだったから、勝手にだけど手当しといた。あと、あんたの着てた上着も破れてたから直しといたよ」
彼は彼女から椀を受け取ると口をつける。食事だけでなく、水分の摂取も彼にとっては必須のものではないが、甘やかな水が喉を滑り落ちていく感覚が何となく心地よかった。彼は彼女へと向き直り、
「すまない、すっかり世話になったな。ありがとう、礼を言う」
そう礼を述べ、彼は身体に掛けられていた布を払い、身を横たえていた簡素な造りの寝台を下りようとすると、彼女に押し留められた。彼女はその細い腰に手を当てて、溜め息混じりに彼へと問うた。
「そんな大怪我でどこへ行くつもり?大人しくしていないとまた傷が開くよ。無茶は禁物」
「しかし…これ以上、世話になるわけには…」
「怪我人は黙って寝てなさい。何か反論があるなら治ってから言って。どうせここはあたし一人だし、傷が塞がるまでは何日でもいてくれて構わないから」視線を泳がせて、しどろもどろになりながら辞退する彼に、彼女はぴしゃりとそう言ってのけた。「あたしはシュリ。この森に住んでるの。で、あんたは誰?あんな大怪我して、何があったの?」
「俺はドゥーエだ。俺は…その…」
苦手なタイプでこっちの調子が狂わされるなどと思いながら、彼は畳み掛けてくるシュリにそう応じる。しかし、明らかに人間である彼女に対して、自分が”人喰い”であり、子供を喰らったせいで街の自警団に追われ、傷を負わされたなどとは口が裂けても言えるはずがない。彼女の反応から察するに、彼の背に流れる長い黒髪に隠れた”人喰い”特有の尖った耳や牙には気付かれていないようだ。”人喰い”といえども比較的理性的な性格の彼は、説明が面倒くさいからといって、口封じのために世話になった人間を喰うことで始末してしまうのは合理的ではあるものの忍びない気がした。恐らくは完全に厚意で助けてくれたのであろうこの少女に真実を伝え、彼女の顔が恐怖や憎悪に歪むのを何となく見たくないような気がした。どうしたものかと彼が言い淀んでいると、見かねたように彼女が、
「…いいよ。人には言いたくないような事情もあるだろうし」
「…すまないな」
「いいよ。変に嘘つかれるよりはよっぽどいい」彼女はドゥーエの額に乗せた布を取ると床へおいた桶へと浸す。シュリは右手を彼の額に、左手を自身の額へとあてがって、「そんなことより、熱ももうだいぶ引いたみたいだね。身体の調子はどう?」
「おかげでだいぶ楽になった。俺は一体、どのくらいの間、気を失っていたんだ?」
「丸一日、かな」彼女は双方の額から手を外すと、桶の中に浸した布を絞って、彼の額へと当ててやりながら答える。「あたしがあんたがこの森の入口で倒れているのを見つけて、ここに連れてきたのが昨日の夕方だったから」
「そうか」
頷くと、ドゥーエは寝台に身を横たえたまま、視線だけを動かして、室内の様子を観察する。シュリの身なりからも想像がついていたことではあるが、年頃の娘が暮らしているとはとても思えない、簡素といえば聞こえがいいが、生活する上で必要最低限のものしか置いていない殺風景でどこか寒々しい印象を受ける家だった。室内はそれほど広いとはいえないが、それでも人が一人暮らすには充分な広さがあった。ドゥーエが横になっている寝台から見て、奥の方に出入り用の木の扉があり、棒が斜めに立てかけられている。その横には水の詰まった瓶と竈があった。寝台から見て右の壁に沿って、何の飾り気もない僅かな着替えや食材などの生活に必要な品と、用途の分からない萎びた草や実が収納された簡素な木の棚があり、その横には棚と同じ種類の木で作られたと思しき何の装飾もないテーブルと椅子が置かれていた。向かいの壁では小さな煉瓦の暖炉で炎が揺れている。寝台の脇の壁には申し訳程度に麻布のカーテンが掛かった窓があり、これがこの部屋の全てだった。
「…お前、ここに一人で住んでいるんだろう?」彼がそう問うと、シュリはそうだけど、とその言葉をあっさりと肯定する。「お前、淋しくないのか?」
「…ううん、慣れたから」彼女はドゥーエの言葉に一瞬驚いたように、その黒い双眸を見開くとかぶりを振った。そして、彼女はまるで自らを嘲るかのように、「それにあたしは…この先もずっと、一人だから」
「……」
「ねえ、知ってる?」彼女は打って変わって明るい声音で彼に問うた。「この森ね、魔女の森って呼ばれてるんだってさ」
「魔女の森?」
ドゥーエは訝しげに眉を顰めた。記憶が定かだとは言いがたいが、この森へと向かう途中、確かに誰とも行き合わなかったような気がする。何か関係があるのだろうか。
「いつからか、この森には子供が一人、暮らしている。街に住む人間からしたら、こんな森の中で一人で暮らしている子供なんて、どう考えてもおかしいし、気味が悪い、魔女に違いない、って。魔女に会ったら行きては帰れない、だからこの森には入るなって、恐れられてるってわけ」
「それが…お前か」
「そういうこと」シュリは頷いた。「って言っても、あたしは魔女なんかじゃなく普通の人間だし、怖がられている割には噂の魔女がどんなのなのかなんて誰も知らなかったりするんだけど。まあ、そういうことだから、こんなところに誰も来ないし、治るまでゆっくりしていって」
「ああ。ありがたい」
「さて」彼女は寝台の傍を離れ、棚の前へと立った。「そんなことよりも、そろそろ夕方だし、あたしは夕飯の準備するけど、あんた何か食べられないものとかある?」
とはいっても大したものはできないんだけどと笑う彼女に、無いとドゥーエは答えた。シュリは棚から食材とナイフを取り出すと、テーブルの上で刻み始めた。とんとんと小気味良く単調な音が彼の聴覚と室内を心地よく満たし、眠気の波が彼へと押し寄せてきた。彼は訪れた眠気に己を委ねると、そのまま眠りへと落ちていった。
こうして、互いの事情も知らないままに、少女と男の共同生活が始まった。

それから、数日が過ぎ、ドゥーエがシュリについて、一つ知り得たことがある。覚えている限りでも生活の中に年頃の娘が傍にいた記憶がない彼にでもわかるほどに、家の中の様子や親切心からとはいえども見知らぬ男を平然と寝泊まりさせていることからも推して知れることではあったが、同じ年頃の娘たちに比べて、己のことについて彼女はとにかく無頓着なのである。適当というのとはまた違う。彼女は毎日、日の出と共に起き出し、堅実かつ的確に己のなすべきことをこなしていく。しかし、彼女が興味を示すのは、己の生活に関係する最低限の部分についてのみであり、とりわけ、自身の年頃の娘ならではの部分には頓着しない。異性に肌を見られたところで特に何とも思わないようで、先日、早朝にこの森を流れる川で、彼女が一糸纏わぬ姿で水浴びをしているところに出くわしてしまった際も、彼女は顔色一つ買えずにおはようと朝の挨拶を投げかけてきた。あのときは、何故かドゥーエのほうがどぎまぎとしてしまった。彼女は逆に異性の肌を見ても何も思うことはないようで、ドゥーエがあの日、意識を取り戻して以降は、自分でやるといっているにも関わらず、起床直後と就寝直前に有無を言わさず傷の手当をするべく、彼の服を捲り上げてくるので、辟易させられている。最初はドゥーエも拒もうとはしていたものの、彼女の強引さに彼は好きにさせることにした。つまるところ、彼は彼女の元に逗留しだしてからこの方、ペースを狂わされっぱなしであった。特に腹が減っているわけではなかったが、傷の回復の促進のために、彼の正体のことなど露ほども知らないのであろう無防備過ぎる彼女を喰ってやろうかと思ったりもしたものの、何となくやめておいた。親切心から助けてくれたシュリに恩を感じているからというわけではなく、あんな小柄で痩せぎすの少女を喰ったところで美味くないだろうという理由で自分を無理矢理正当化してみてはいるが、たとえまだ幼い子供であっても生きるために喰うことを躊躇わない彼が、こんなふうに近くに獲物がいるにも関わらず、”喰う”ことを思い留まるのは初めての事態だった。美味くもなさそうだし、必要となったときの非常食として取っておくだけだと思い込みたかったが、彼の胸中では原因の分からないもやもやとした掴みどころのない感情がぐるぐると渦を巻いていた。
この数日でもう一つ、彼が彼女について気が付いたことがある。ふとした瞬間にシュリは深い哀しみを帯びた、何かに対する怨恨によるものと思われる強い憎悪の表情を見せることがある。大抵はすぐにふっと仕方なさげな諦めたような弱々しい笑みを浮かべた後に、何事もなかったかのように振る舞い始める。恐らく、過去に何かあったのだろうが、ドゥーエはそれを聞き出すタイミングを掴めないでいた。変わり者の代名詞のように、魔女などと呼ばれながら、こんな森の中でまだ若い娘が一人で暮らしているのだから、何かしらの事情があるのは間違いはない。しかし、彼女が努めて何でもないかのように振る舞おうとする不器用な様に、そのことに対して無神経に踏み込むのは憚られた。こうして、この少女のことを何かと気にかけてやってしまっている事実に、ドゥーエは戸惑いを隠せないでいた。
寝起きのぼんやりとした頭でそんなことを考えながら、彼はまだ大部分を眠気に占領されたままの身体を緩慢な動きで起こし、どうにか寝台から引きずりだした。麻布のカーテン腰に差し込む朝日が眩しく、彼は夜闇の色の切れ長の双眸を細める。先ほど出て行ったシュリもそろそろ朝の用事を済ませて戻ってくる頃合いだろう。彼女は日の出とともに起き出すと、一度ドゥーエを叩き起こして、傷の手当をした後に、水瓶と洗い物の籠を携えて出かけて行き、近くの小川で水汲みと洗濯、水浴びを済ませると帰ってくる。何日も前に彼女が洗って、破れ目を繕っておいてくれたらしい、寝台の上にたたんで置いてあった、着古した年代物の男物の服へと着替えた。こうしたちょっとした日常の動作が当たり前にできるようになってきていることから、ゆっくりとではあっても、着実に回復してきていることが実感できた。寝台の寝乱れたシーツを申し訳程度に整え、ついでに手櫛で髪を直す。続いて、棚からマッチを取り出して擦り、竈に火を入れた。昨日、気まぐれを起こして、シュリが帰ってくるのを待っている間に朝食のために前の日の夕飯の残りを温めておいたところ、帰ってきた彼女にとても嬉しそうな顔をされた。だから何だというわけではないが、彼女が戻ってくるまでは一人ではすることもなく、手持ち無沙汰なだけだと自分に対して言い訳をしつつ、彼は木のお玉で竈に掛けられた昨日の夕飯のスープの残りが入った鍋をかき回す。鍋から白い湯気と人間ならば食欲をそそるのであろう良い香りが立ち上り始めたころ、竈の脇にある扉がキィという音を立てて開き、この数日ですっかり見慣れたショートヘアの小柄な少女が水瓶を胸に抱えて顔を覗かせた。ぽたぽたと水が滴る洗いざらしの黒髪が朝の光を受けて、きらきらと光る。
「あ、また、温めておいてくれたんだ。ありがとう」
「…おかえり」
らしくないことをしている自覚はあったので、せめてもの抵抗として、彼女の顔から大きく視線を逸らしつつも、鍋をかき回す手を止めて彼女の腕の中から水瓶を奪い取りながら、ぼそりと無愛想に彼はそんな言い慣れない言葉を口にする。ずっと、長い間、一人で流離い歩いていたため、こういった言葉に彼はあまり馴染みがなかった。
「…そっか」扉を後ろ手に閉めながら、彼女はくすぐったそうなはにかむような表情を零した。「ただいま」
忘れてた、と独りごちながら、彼女は棚から木製の匙と椀を二人分取り出し、鍋からスープをよそってテーブルへと持って行くと、二つある椅子のうちの一つに腰掛けた。彼もそれに倣い、もう一つの椅子に腰を下ろす。
「いただきます」
白い湯気を立てる食事を前にして、両手を合わせてそう呟いた二人の声が重なった。何がおかしかったのか、数秒の後、シュリが破顔し、吹き出した。それにはドゥーエも微かに苦笑を浮かべざるを得なかった。
「何か、ちょっと不思議な感じだな」彼女は匙を手に取り、スープを掬いながら言う。「いつぶりだろうな、こういうのって」
「…俺もだ」
ドゥーエはスープを啜りながら、彼女の言葉に同意を示す。彼のような”人喰い”にとって人間の摂るような食事は不要であるとは言えども、秋らしい朝の冷え込みにより、冷えた寝起きの身体に心地よく染み渡り、悪い気はしなかった。そして、人間の食事はただの生理的欲求にのみに即したものではないらしいということをこの数日で彼は肌で感じつつあった。彼女は食事を続けながら、
「生活の中に自分以外の誰かがいるっていうのが、とても新鮮。家に帰ってきたときにおかえりって誰かが迎えてくれるのも、こうやって誰かの顔を見ながら食事をするのも、誰かと話すことさえも。本当に些細なことだけど、もし、あたしに今もちゃんと家族がいて、一緒に暮らしていたら、当たり前に行なわれていたことなのかなあって、ちょっと思った」
「…シュリ」彼は匙を動かす手を休め、テーブルを挟んで向こう側に座る彼女を見据えると、静かな声音でその名を呼ぶ。「長い間、俺もずっと一人で旅をしていたから、こういうのは新鮮だ。…しかし、こういうのも悪くないな」
悪くない、と彼は彼女に聞こえないように口の中でもう一度呟き、再び匙を持った手を動かし始める。今の彼女へと向けた言葉は彼の本心であり、そんな感情を抱いている自分が何よりも新鮮だった。傷も少し癒え、多少は動けるようになったのだから、そろそろここを出ていかなければならないと、頭では理解しているというのに、何となくそういう気になれないでいるのも不思議だった。いつまでも彼女の厚意に頭得て厄介になっているわけにもいかないし、何より彼女と自分は決して相容れる存在ではない。自分に彼女を”喰う”気の有無に関わらず、遅かれ早かれ、自分が望もうとも望まなかろうとも、とある一つの結末を迎えることになるであろうことは必至であった。だからこそ、せめて、何らかの形で彼女を傷つけてしまう前に、ここから離れて、彼女のことなど忘れ去ってしまいたかった。それがお互いのためには一番良い。
それを理解しているにも関わらず、何故、自分はここを離れることができないのだろうか。そのことに関して考えを巡らせれば巡らせるほどに、肝心なことを覆い隠している靄は濃くなっていき、同じところで秋もせずにただ空回りし続けるだけだった。うっすらとその輪郭は見えているのに、掴むことができない。
「ねえ、この後、ちょっと手伝ってくれない?」
そんなことに思いを巡らせていたドゥーエは現実に引き戻された。
「手伝う?何をだ?」
この数日で彼が彼女に助けてもらったことは数知れずあるが、彼女の口から手伝って欲しいなどという言葉が飛び出したのはこれが初めてである。彼は咄嗟にそう聞き返しながら、意外そうに微かに、美しく整った形の片眉を上げる。
「薪を集めに行くから一緒に来てくれない?さっき確認してみたら、残りがだいぶ少なくなっていたし。それにドゥーエが来てくれたほうが、あたし一人でやるよりも量も集められるから」
彼は得心し、ああと頷いて了承の意を示した。それほど会話が弾んでいるわけではない食卓に二人が黙々と匙を動かす音が響き、沈黙を強調させていたが、スープの湯気ではない何か暖かなものが漂っており、多少の居心地の悪さは感じたものの、悪い気はしなかった。彼はスープの残りを啜りながら、もう一度、悪くないとこっそりと胸中で呟いた。

ザクッ、ザクッと長旅でどろどろに汚れて擦り切れ、古びたブーツの下で、かさかさに乾いた茶色い落ち葉が音を立てた。顔に触れる秋の朝の森の空気は日が昇ってだいぶ経っているとは言えど、少し水気を帯びて湿っぽく、ひんやりとしている。シュリの手によって、洗われ、繕われたことによってだいぶ見られる姿になった着古したいつもの旅用の黒い外套を纏っていてなお、まだ少し肌寒く、ドゥーエは、これもまた使い込まれて擦り切れた安っぽい黒い革の手袋をつけた手で腕を擦った。外套の下にもう一枚何か着込んでこればよかったと後悔している彼に対して、シュリはいつも通りのごわごわとしている割には薄い麻の衣服一枚の上から薄手の茶色いケープを羽織った程度の軽装である。そんな出で立ちの彼女を横目で見つつ、その性格上、もっと年頃の娘らしく服装に気を遣えというのは難しくとも、せめて、寒さに位は気を遣えばいいのにと彼は思う。何で、出会って数日の、本来ならば捕食対象でしかないこの少女に対して、こんなにも心を砕いてやらねばならないのかと苦々しく思いながら、彼がそれを軽く指摘してやると、慣れてるから、と彼女に素っ気なく受け流された。彼は軽く肩を竦めると、地面に点在するほどよい細さの枝を拾い集め始める。水気を吸って、少し湿ってしまってはいたが、乾かせばきっと充分に使えるだろう。薪に使う枝は一本一本は細く、軽いため、それほど嵩張りはしないものの、量が増えてくると、水分を含んでいることもあって、ずっしりとした重さが腕にのしかかってくる。普段は彼女が少女の非力なはずの細腕でこういった力仕事をこなしているのだと思うと、どんな事情があるにしろ、一人で本当によくやっていると感じた。腕に抱えた枝々を多少持て余しながらも、せっせと枝を拾い集めていく彼女の小さく華奢な背中からは精一杯さが滲み出ていると同時に少し強がって足を踏ん張っているように感じられ、哀しいほどに彼女の生き様を的確に表しているように思えた。その様がいじらしくて、ドゥーエは一瞬、呼吸が苦しくなる。
「ドゥーエ」両腕いっぱいに枝を抱えたシュリがその重みで多少よろけつつもこちらへと向かってくる。この肌寒い中にも関わらず、うっすらと汗で湿った額を彼女は服の袖でぞんざいに拭うと、「そっちも集め終わった?」
「ああ」ドゥーエは頷く。彼は早口に「…少し貸せ。持って行ってやる」
言うが早いか、彼は自分も既に腕いっぱいに枝を抱えていたにも関わらず、彼女の抱えていた枝を半分ほどその腕から有無を言わさず、らしくないことをしていることに対する照れ隠しのように奪い取る。何をやっているのだろうと自分自身に呆れながら、彼は踵を返した。呆気にとられていたシュリが小さくはにかむような笑みを零して、ありがとうと呟いたのを背中越しに感じ、ドゥーエは何だかむず痒い感覚を覚えながら、シュリの家へと向かう足を心持ち早めた。

集めた薪を運び終え、ドゥーエはシュリについて家の中へと足を踏み入れた。彼女は彼を振り返り、お茶でも飲む、と問うた。薄着の彼女の方は特に堪えた様子もなく平然としていたが、彼自身はまだほんのりと寒い秋の朝の森の中での作業により、少々身体を冷やされてしまっていたのを感じており、断る理由も無かったため、彼はもらう、と頷いた。彼女は流れるような慣れた手つきで、棚からマッチを持ってきて擦り、竈に火を入れ、その脇の水瓶から古びてはいるがよく磨かれたやかんに水を汲むと火にかける。湯を沸かす間に、彼女は着ていたケープを脱いで畳み、棚の下の方の弾に仕舞うと、今度は乾燥させた葉の入ったガラスの壜と茶漉し、何か模様が入っているわけではない味気も素っ気も飾り気もない白く無骨な陶器のティーカップ二つと揃いのティーポット、そしてティースプーンを棚から取り出して、手早くテーブルの上に並べ始める。彼はそんな彼女を何とはなしに目で追いながら、のろのろとした緩慢な動きで手袋を外し、外套を脱ぐと、適当にくるくると巻いてぞんざいに寝台の下へと突っ込んだ。その間にも、シュリは壜の中のよい香りのする茶葉をスプーンで掬って茶漉しに詰め、お茶を淹れるための準備を着々と進めていた。やかんが白い湯気を吐き出しながら、高い音の口笛を吹き鳴らして、湯が湧いたことを告げると、彼女は竈からやかんを取ってきて、茶漉しの入ったティーポットへと白い湯気の立ち上る茶色い液体を注ぎながら、
「ドゥーエ。お茶が入ったよ」
「ああ」
ドゥーエは空いていた椅子の一つに腰を下ろした。お茶を注ぐこぽこぽという音が聴覚に心地よく沁みる。はい、と彼女にテーブル越しに湯気の立ち上る茶色い液体の注がれたカップを手渡され、彼はそに口をつける。喉に痛みとも錯覚するような熱さが走った後、じわじわと全身に心地よい暖かさが広がり始める。嗅覚と味覚を香ばしい茶の香りが満たした。広がっていく安らぎに冷えた心身を委ね、ふぅ、と彼は息を漏らした。
「…美味い」
そんなシンプルなことの上ない感想が口をついて出た。シュリの顔に一瞬嬉しそうな表情が浮かぶ。自分も茶を啜りながら、もう一つの椅子に腰掛けると、ドゥーエの顔の横の辺りに視線を泳がせながら早口に、
「…この森に生えてる木の葉を何種類か集めて、あたしがブレンドしたお茶なんだけど、口に合ったみたいで良かった」
「草木に詳しいんだな」
「…お母さんが薬師だったから」お母さん、という単語を口にしたとき、少しだけ、口調に痛切な哀しみが混ざった。ドゥーエは、お前の母親は、と彼女に問い質しかけたが思い留まる。それもほんの一瞬のことで、彼女は打って変わっていつも通りのさばけた口調で、「それに自分で作れるものはなるべく自分で作ろうって決めてるから。時々森の近くを通る隊商と、あたしが自分で作った薬での物々交換で必要なものは手に入れてるけど、それもそういつもできることじゃないし。だから、このお茶やドゥーエの手当てに使った薬だけじゃなく、食器や家具なんかもほとんどあたしが自分で作ったものだよ」
「器用なんだな」
そう感心しつつも、ドゥーエはそうした暮らしを送らざるを得ない彼女の身の上を思った。一体、何が、親もおらず、こんな森の中で一人でどうにか生きていかなければならないような境遇に彼女を追いやっているのだろう。それを聞くのは何となく躊躇われて、依然として聞けないままの状態が続いていた。彼女自身は気付かれていないつもりのようだが、あんな表情をされてしまったのでは、聞くに聞けない。そんなふうに悶々と燻っている彼の胸中を知ってか知らずか、彼女は茶を飲み干すと、テーブルにカップを置いて立ち上がり、棚の引き出しから、時を経て少し変色した一冊のノートを取り出した。それを手に、再度、彼女は椅子へと腰を下ろしながら、
「これ、お母さんの持ってた知識がありったけ詰まってるものなんだ。あたしもこのノートからは色々なことを勉強させてもらった」その記憶を愛しむように、懐かしむように、彼女は目を細めながら、そのノートのページをぱらぱらと捲る。「ねえ、良かったらちょっと教えてあげようか?すぐにでも活かせるような薬草の知識」
「ああ、頼む。この先も旅を続けていく上で、多少なりとも、そういった草が自分で見分けられるようになるのは助かる」
「旅、か…」
表情を曇らせ、彼女は呟く。彼女の小動物じみた黒の双眸が揺れる。その顔はどことなく、今にも泣き出しそうに見えて、ドゥーエは戸惑い、彼女の名を呼んだ。
「…シュリ?」
「ドゥーエは…」彼女はそう言いかけて、言葉を切る。「ごめん、何でもない」
彼女はそう取り繕い、無理な笑顔を浮かべる。その痛々しさに、ドゥーエは胸が締め付けられるような気がした。
「シュリ」彼はごほんと、わざとらしい咳払いをすると、努めて淡々とした口調で後を続ける。人間を相手にらしくないことをしている自覚はあったが、なぜだか、彼女にそんな顔をさせていたくなかった。「…無理するな。言いたいことを吐き出せる相手が近くにいるときくらい、何でも、吐き出せることは吐き出してしまえばいい。一人でそうやって感情を抱え込む必要はない。今…お前は、シュリは、一人ではないのだから」
「…ありがと」
自分でも何が言いたいのかいまいちまとまりきらないせいでわからなくなっていたが、何となくニュアンスは伝わったようで、シュリがぼそりと礼を述べた。そして、零れそうになった涙を押し留めるかのように瞬きを繰り返しながら、ノートをぱらぱらと捲り、目的の記述のあるページを見つけると、照れ隠しのように、少しぶっきらぼうに、それじゃあ、ここを見て、とその部分をドゥーエに向かって、荒れた人差し指で指し示してみせた。彼は、そんな彼女に対してなのか、らしくもないことをし通しの自分自身に対してなのかはわからないが、香ばしい茶を啜りながら、複雑な感情を内包した苦い笑みを浮かべた。

それから、一週間が過ぎた。夜も更けているというのに、シュリに寝台を返し、部屋の隅で日向の匂いがする柔らかな毛布に包まって横になったまま、ドゥーエは寝付けないままでいた。生い茂る森の木々の葉やこの家の屋根を叩く雨の音がやけに大きく聴覚に響いて、それがかえって深夜の静けさを強調した。彼は何度目になるかわからない寝返りを打つ。
彼は明日、ここを出て行く事をシュリへ告げた。彼女は少し寂しそうな表情をちらりと覗かせはしたものの、拍子抜けするほどにあっさりとそのことを受け容れ、頷いて了承の意を示した。
思えば、この二週間ほどが異常だったのだ。”人喰い”は決して人間とは相容れることはできず、共存など出来はしない。彼自身、また一人きりの行く当てのない、いつまで続くともしれない旅の暮らしに戻るのが、正直、寂しく、物足りないと感じていないわけではなかった。しかし、このままここに留まっていては、短い時間でこそあったものの、共に過ごし、世話になった、どことなく捉えどころがなく、心の奥底に哀しみだけではない深い負の感情を抱いた彼女を近いうちに傷つけることとなるのは間違いない。彼女からすれば、流れ者の胡散臭い旅人であるにも関わらず、追い出されないのをいいことに長々と居座り続けてしまった。世話になった恩義を感じているのは勿論だが、それだけでなく、自分がいつか彼女を喰ってしまうようなことになるのは嫌だと、”人喰い”の本能と相反する原因不明の感情をいつの間にか抱くようにすらなってしまっていた。互いのために、ずるずると先延ばしにしていた出立を決めたわけだが、時折、彼女が見せる哀しそうだったり、寂しそうだったりする表情や、己の胸のうちに不穏な渦を巻いている正体不明のままの感情により、後ろ髪を引かれる思いだった。ここでシュリと過ごした二週間はとてもとても緩やかかつ穏やかで、ドゥーエにとって意外にも心地よくて、このままこんな暮らしが続いていくかのように錯覚してしまうほどに安らぐことができた。そんな日々をかぶりを振って脳裏から追い払う。きっと、時が経てば、人間よりも遥かに長い時を生きていく自分にとっては記憶にも残らぬほどに些細な出来事でしかなくなり、彼女にとっても、繰り返される日常に埋もれて色褪せていくに違いない程度のことに過ぎない。そう思うことで、彼はどうにか自分を納得させようとしたものの、本当にそうなのだろうかという疑問を拭いきれないままでいた。もう一緒に過ごすのも最後なのだと思うと、こちらに背を向け、寝台の上で毛布に包まって眠っている彼女の温もりに無性に触れてみたいという衝動がこみ上げてきたが、布に包まれたその存在の輪郭を記憶に焼き付けるかのように視線でなぞるだけに留めておいた。そのとき、ひくっ、と小さくしゃくり上げるような涙で湿ってくぐもった声を彼の聴覚が捉えた。夜の闇に包まれた部屋の中、目を凝らすと、彼女の華奢な細い身体が、秋の夜の寒さではないもので小刻みに震えているのがわかった。ドゥーエは訝しげに彼女の名を呼んだ。
「シュリ…?」
彼女は毛布に包まったまま、啜り泣くばかりで反応らしい反応は得られず、彼は身を起こすと、寝台へと歩み寄り、その淵に腰を下ろして、毛布から覗く彼女の短めの黒い髪を加減がわからず、不器用に、どちらかというと掻き回すかのように撫でてやった。巣穴から様子を窺う小動物よろしく、彼女は涙に濡れた顔を覗かせた。
「ドゥー…エ…」
掠れた声で彼女はそう呟くと、ドゥーエの身体へとしがみついてきた。意外にも強い力だった。彼女は彼の胸に顔を埋めると、先程よりも激しく、泣きじゃくり始めた。ドゥーエは突然のことで戸惑ったものの、その華奢な背に腕を回すと安心させるようにゆっくりと撫でてやった。触れ合っている部分から伝わる早い鼓動と温もりが、胸が痛く、苦しくなるほどに、彼女が今ここに存在していることを確かに伝えていた。いつの間にか強くなった雨音の中を細く甲高い、哀切に満ちた苦しげな悲鳴が貫いた。
モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2016 Kyoka Nanamori All rights reserved.