カケラ -close to you-

ススム | モクジ

  プロローグ*広い世界の片隅で  

今にも雨が降り出しそうなどんよりと重たい灰色の空の下、申し訳程度に人の手の加えられた無いよりはましといった風情の道が細く、今にも消えてしまいそうになりながら続いていた。雨の匂いを孕んだ風が、辺りにむっとするような血液の香りを立ち込めさせる。さわさわと風に揺られて音を立てる草の波に紛れて明らかに事切れている全身を赤く染めた中年の男性が倒れていた。その身体の近くにその男の持ち物だったと思われる、近隣の街の住民にありがちな地味で粗末で垢抜けない衣服に包まれた腕が無造作に放置されている。
「…人間とは実に薄情な生き物だな」
その光景を認め、明後日の方向へと視線をやりながら、年季が入り、砂埃で汚れた黒い外套を纏った長身痩躯の人影は低い男の声で淡々とした口調で呟き、皮肉げに口元を歪めた。目深に被ったフードからちらりと覗く容貌の一部から、まだ若いと推察されるその人物も手傷を負っているようで、外套からくらい赤色の液体を滴らせ、いかにも満身創痍といた様子だった。左肩には深々と矢が刺さっている。彼は忌々しげにちっと不快げに舌打ちをすると、傷口が広がるのも構わずに右手で無造作に矢を引き抜いた。彼は傷口から引き抜いた矢を後ろ手に無造作に放り捨てると、草を掻き分けて男の亡骸へと歩み寄った。傷のせいだろうか、その足取りはどことなく頼りなく、動きは重かった。彼は骸の傍に膝を折って屈みこむと、落ちていたまだ持ち主の体温が残っていて生温い腕を拾い上げ、口元へと持っていった。外套のフードの奥で彼の双眸が異様さを伴ってぎらりと真紅に光る。人気のない荒野にぼきぼきという人の骨の砕ける音がやけに大きく響いた。一瞬の後、彼の手の中から男の腕は忽然と姿を消していた。彼は唇に付着した赤黒く生臭い液体をまるでソースでも舐めるかのように無造作に舌で舐め取りながら、普通だな、という明らかに普通ではない感想を独りごちる。犬歯と呼ぶには大き過ぎる明らかに人間のものではないと思われる鋭く発達した牙がその端正な口元から顔を覗かせる。こんな親父なんかよりはさっき街で喰った子供のほうが美味かったなあなどということを思いながら、メインディッシュたる死んだ男の本体へと彼は覆い被さり、その鋭く尖った牙を突き立てる。やはり子供のほうが肉が柔らかく脂身に甘みがあって美味い。そんなことを思いながら、彼はまるで獣のように男の身体へと齧り付き、咀嚼を繰り返す。何だかんだと文句はあるものの、鼻腔を突き抜けていく人間の血肉の香りはひどく彼にとって魅惑的で、彼は、”食事”を続けながら、時折、嗚呼、という切なげで官能的な吐息を漏らす。
彼は”人喰い”だった。”人喰い”とは、獣のように鋭く発達した牙と尖った耳を持つ以外は、人間に酷似した姿を取っていながらも、人間の骨肉を喰らう人間の亜種である。彼のような”人喰い”は老化がひどくゆっくりで、総じて整った美しい容貌を持ち、人間にはあるまじき怪力を身の内に秘めているが、人間の摂るような食事は必須ではない。しかし、彼ら”人喰い”は定期的に人間の骨肉を喰らわなければ、身の内が灼けるような苦しみを味わった挙句、衰弱して、やがて死に至るという。そのため、今しがたのように、人間に襲われ、迫害されようとも、それは彼にとって生きていくために必要な営みに過ぎなかった。
今日の昼下がり、彼はここから少し南下したところにある、いかにもな感じの典型的な垢抜けない風情の小さな田舎町へと立ち寄った。街の雰囲気と同様に垢抜けない感じのまだ三歳ほどと思われる幼い少年が細い路地へと入っていくのを目にし、気づかれないように彼はその後を尾けた。人目がなくなったのを確認し、彼は少年へ背後から忍び寄って襲いかかり、首の骨をまるで小枝を折るかのように軽々とへし折って殺害した。そして、その少年へ頭から齧り付き、舌鼓を打っていたところに、偶然、通りがかった街の人間に見咎められて騒ぎとなり、その街の自警団に追われることとなった。人数が人数であり、流石に分が悪かったため、彼はやむなく街を逃げ出したが、自警団の人間を撒くことに失敗し、今いるこの辺りで追いつかれたため、戦闘を余儀なくされた。いくら、彼が人間離れした怪力を持つ”人喰い”であるとはいえども、多勢に無勢だった。自警団の面々に多少なりとも手傷を負わせることには成功したものの、引き換えに彼自身も剣で斬りつけられたり、矢で射られたりと、深手を負わされてしまった。今、そこで屍となって見るに耐えない無残な姿を晒していた自警団の一員たる中年の男の後頭部を殴って殺害し、左腕を食いちぎったところで、彼に恐れをなして、自警団の面々は恐慌状態へと陥り、我先にと男の死体を回収することもなく、尻尾を巻いて街へ逃げ帰っていった。
彼は男の身体を平らげると外套の袖口で口元に付着した血液や人肉の食べかすを拭い、立ち上がった。自身の血をだいぶ失ったからか、まだ身体がふらふらとして頼りなかったが、今しがたの食事のおかげでもう少しは動くことができそうだった。どこかで身体を休め、傷を癒やさなければならない。逃げ出してきた街とは反対の方角を振り返ると、遠目に木々の生い茂る森が確認できた。あそこであれば、休むにはうってつけだし、恐らく何とか移動できるだろう。まるで、鉛にでもなってしまったかのように重い体を叱咤し、半ば引きずるようにして、彼は森へ向かって歩き出した。彼の外套の裾から滴った彼自身の血液が赤黒く、道に足跡を残す。負った数々の傷を中心に、身体が熱を持っているのを彼はぼんやりと霞みゆきつつある意識を必死で繋ぎ止めながら感じた。脂汗が滲み、彼の漆黒の細い前髪が外套のフードの中で額に張り付いた。一刻も早く休みたい、その一心で彼はどうにか、まるで逃げ水であるかのように遠くに見えていた森の入口に這々の体で辿り着いた。森の中へと足を踏み入れた途端、緊張が緩んだのか、彼の世界がブラックアウトし、急速に聴覚から音が失われていった。そして、彼は自らの身体を制御する術を失い、その場で昏倒した。
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